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2019-01-04

佛陀の九徳 ~ 正自覚者3、十力智2


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

遍趣行智 sabbatthagāminī paṭipadā ñāṇa


 3番目の智慧です。 sabbatthagāminī paṭipadā ñāṇa。輪廻転生をする生命が良い所に生まれることも悪い所に生まれることも、業によって起きます。それがなぜそうなるのか、良いところに行くにはどうすべきか、がわかる智慧です。

 例えば、みんな一緒に善いことを行うことがありますね。みんなで一緒に冥想したり、お布施式を行ったり、いろいろ一緒に功徳を積むことができます。しかし、世の中には一緒に悪いことをすることもあります。

2018-09-02

佛陀の九徳 ~ 正自覚者2、十力智1


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

dasabalañāṇa 十力智


 四諦をちゃんと理解しているという意味で、お釈迦さまは sammā sambuddha といいます。その四諦を理解した時に不思議な dasabalañāṇa 十力智といわれる智慧が生まれます。この十力智、説明するのはちょっと難しいんですけど、がんばります(笑)。

お釈迦さまの徳は考え切れない


 お釈迦さまは aṅguttaranikāya の catukkanipāta の中で、

buddhānaṃ, bhikkhave, buddhavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa.

 佛の徳は考え切れません、と教えてあります。誰かが佛の徳をもっともっと深く深く考えていきたいと、それをみんなに説明してあげたいと思うならば、その人は頭がおかしくなります。理解できないということですね。いろんなところで説明してあるものを理解できなくなって、それで頭がおかしくなることになります。だから私たちにできる力で、それを理解しなければいけないということですね。だからものすごく難しい。

佛陀の九徳 ~ 正自覚者1、四聖諦


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

正自覚者 sammā sambuddha


 今日はお釈迦さまの九徳の中で二番目の徳、sammā sambuddha という徳について説明します。
 
 sammā sambuddha というのは正自覚者である、ということですね。<完全たる悟りを最初に覚って、その悟りへの道を他に教えられる方>、完全に悟りを開いたということです。

sambuddha は正自覚者と独覚佛陀


 この sammā sambuddha という言葉は、sammā、sam、buddha という三つの単語に分けることができます。sambuddha といったらもう完璧に悟った、という意味です。sammā sambuddha とは自分で、一人で悟りを開いた人ということ。一人で悟った方に sambuddha というんですから、正自覚者と独覚佛陀、その二人ともに sambuddha という言い方をします。

2017-12-29

佛陀の九徳 〜 阿羅漢2、功徳、縁起


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

アンナバーラの話


 ダンマパダの注釈書、dhammapada-aṭṭhakathā ダンマパダッタカターを読んでみると、因縁物語としてこういう話が沢山あります。
 
 お釈迦さまが生まれるより前の、アンナバーラというとても貧乏な人の話です。

ダーナサーラ・お布施食堂


 バーラーナシーという国にスマナという大金持ちがいました。そのスマナという人は色んな人たちにお布施をしていました。ダーナサーラーといって、お金がある人たちは昔自分の家の前で食堂を作って、そこで誰が来て食べても良いですよということで、貧乏な人たちもよくそこに来て食べていましたし、他の困っている人たち、道行く人たちにも食べさせてあげていました。
 
 こんなことを言うと「こんな人たちが本当に昔いたんですか?」と日本人は思うかも知れませんが、スリランカには今でもいます。だから私たちには何も不思議なことではありません。5月、6月になるとスリランカではただで、どこに行っても食べられるんです。
 
 ウェーサーカ月に入ると、村の人たちがみんなでお金を集めて食堂を作ります。それで一週間くらい沢山ごはん、カレーを作って、道を通る人々、貧乏な人たち、みんなを呼んで食べさせてあげるということを、今でもやっています。
 
 だから私たちには、貧乏な人を沢山自分のうちに呼んで毎日お布施をしている人がいました、といっても全然不思議とも何とも思わないんです。今でも見ることができますから。私たちは昔からやっていることですし、インド、スリランカ、タイ、ミャンマーでは、今でもあることです。
 

2017-12-05

佛陀の九徳 〜 清浄道論、注釈書、阿羅漢1

(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

 では一緒に佛陀の九徳をパーリ語で唱え、それから一回日本語で唱えましょう。
 
 namo tassa bhagavato arahato sammā sambuddhassa.
 namo tassa bhagavato arahato sammā sambuddhassa.
 namo tassa bhagavato arahato sammā sambuddhassa.
 
 itipi so bhagavā arahaṃ, sammā sambuddho,
 vijjā-caraṇa sampanno, sugato, lokavidū,
 anuttaro purisa-damma-sārathi,
 satthā deva-manussānaṃ, buddho, bhagavāti.
 
 sādhu! sādhu!! sādhu!!!
 
 世尊は
 阿羅漢(一切の煩悩を滅尽し、神々、人間の尊敬・供養を受けるに値する方)であり
 正自覚者(完全たる悟りを最初に悟ってその悟りへの道を他に教えられる方)であり
 名行具足者(8種の智慧と15種の行『性格に関する徳』が備わっている方)であり
 善逝(正しく涅槃に到達した、善く修行を完成した、正しく善い言葉を語る方)であり
 世間解(宇宙、衆生、諸行という3つの世界を知り尽くした方)であり
 無上の調御丈夫(人々を指導することに於いて無上の能力を持つ方)であり
 天人師(人間、超次元的存在である神々等一切衆生の唯一の師)であり
 覚者(真理に目覚めた方、佛陀)であり
 世尊(全ての福徳を具えた方)であります。
 
 サードゥ! サードゥ!! サードゥ!!!

2017-11-26

佛陀の九徳 〜 導入

(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

 佛教徒にはどうやってなるのでしょうか。

 他の宗教、例えばキリスト教であればバプテスマ、洗礼という言葉があって、神の聖なる水をかけてキリスト教徒になります。教会の中で冷たい聖なる水をかけて、キリスト教徒になる。そのように色んな宗教では信徒になる方法が決まっています。
 
 さて佛教です。どうやって佛教徒になりますかということを聞かれた時、お釈迦さまは「佛法僧に帰依することで佛教徒になります」と教えられました。
  
 次に佛教徒になった人はどうすれば優婆塞、優婆夷になりますかと聞かれましたので、「三帰依、五戒を守ることによって優婆夷、優婆塞になります」と答えました。だから佛教徒になったら、その人は、必ず五戒を守ることを約束しているんです。誰と約束しているかというと、自分と約束しています。お釈迦さまと約束しているわけではありません。戒律を守るとその結果は自分がもらえますので、自分と約束するんです。
 
 佛教徒になるためには三帰依もしなければなりませんから、その三帰依というのはどういうものかと、佛教徒はちゃんと理解しなければいけません。ただ buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi ブッダン・サラナン・ガッチャーミ、dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi ダンマン・サラナン・ガッチャーミ、saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi サンガン・サラナン・ガッチャーミ、佛に帰依します、法に帰依します、僧に帰依しますという言葉を言うだけでは、三帰依したとは言えません。
 
 三帰依というのは心からやるものですから、佛陀とはどういうものですか、法というのはどういうものですか、僧という人たちはどういう人たちですか、とちゃんと理解しなければいけません。佛法僧の徳を、佛教徒になった全ての人々は少しでも、理解していかないといけません。
 
 佛法僧に礼拝する、buddha-vandanā、dhamma-vandanā、saṅgha-vandanāというお経、お経といっても経典の中にまとめられているもので、dhajagga-suttaという経典、dhajagga-parittaの中で、佛法僧の徳をお釈迦さまは教えられています。itipi so bhagavā arahaṃ, sammā sambuddho とか svākkhāto bhagavatā dhammo という偈、supaṭipanno bhagavato sāvakasaṅgho というその三つの佛法僧の徳です。それで我々も佛法僧に帰依して礼拝するために、この三つの偈を唱えることになっています。
 
 しかし、お釈迦さまの徳といったらもう数え切れない、この上ない功徳、徳があると言われているんですね。だからまあ我々が一般的に徳を理解するというのは、とても難しいことです。なかなか一般の人には、佛陀の九徳も理解してもらうのは難しい。
 
 お釈迦さまは教えます、
 
 buddho pi buddhassa bhaṇeyya vaṇṇaṃ
 kappaṃ pi ce añña mahāsamāno,
 khīyeta kappo viya degha mantare
 vaṇṇona khīyeta tathāgatassa.
 
 一人の佛様がもう一人の佛様の徳を話します。それも、寝ないで昼も夜もずーっと佛陀の徳を唱えることにします。そうしていくと、長い時間「劫」、世界が始まってから無くなるまでの間、その一劫の間、昼も夜も寝ないで佛陀の徳を唱え続けても、佛陀の徳は話しきれません、という意味です。
 
 佛にも佛の徳を唱えて劫の間に終わることができない、では一般の人たちはどうやって徳を理解するのか。だから我々にわかりやすく、全ての徳を九徳にして教えています。
 
 少なくともその九徳というものはどんなものかと、理解してほしいのです。それと同じように、法の六徳も理解しなければいけない。それから僧の九徳も。

 全て数えると24徳あります。佛法僧の24徳という言葉をよく使います。私たちもよく皆さんを祝福する時、この佛法僧の24徳を唱えて、その24徳の力で皆さんが幸せでありますように、と祝福するんです。佛教の僧侶の祝福とはそういうものです。決心というか決意、sacca kiriya サッチャ・キリヤ、本当にこの世の中に現れているものを唱えて、それは本当のことですから、その真実の力で皆さん幸せでありますように、とお祈りするんです。念じる、と言ってもいいと思います。
 
 他の宗教だと祝福はまた別ですね。神のご加護がありますようにと。一応私たちも佛陀のご加護がありますようにとか、三宝のご加護がありますようにという言葉を使うんですけど、それを使っているのは佛陀の徳の力で皆さんにご加護がありますように、という意味で使っているんです。
 
 それでは、これから佛陀の九徳を説明していきます。

2017-11-21

教え、「法」とは?


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)


他人が戒律を守っているかどうかは関係ない


 お釈迦さまが教えているのは、

 na paresaṃ vilomāni - na paresaṃ katākataṃ,
 attanova avekkheyya - katāni akatāni ca.

 他の人がやったこと、やらなかったことを探すのではなくて、自分が何をやったかやらなかったかということを見て下さい、ということです。だから他の人が戒律を守っているか守っていないか、関係ないんですね、私たちには。自分で戒律を守って、自分で正しい生活をすれば良いんです。
 
 戒律を守らない人であっても、その人に能力があって正しいことを教えてくれるんだったら、それを聴いて下さい。そうじゃないと勉強することが出来ません。
 

2017-08-29

ニャーナサーラ長老の説法


 第七回雨安居中過去七佛供養法要と特別説法の動画で、ニャーナサーラ長老がシンハラ語で説法をなさっています。


 ニャーナサーラ長老はスリランカでは大変有名なお坊様で、イスラム教の問題に関して政治的な活動もなさっています。YouTubeで検索するといくつも動画が出てきますので、そのうちの二つを紹介いたします。
 
佛随念


ジャヤ・パリッタ

 さてその時の説法について、法要が終わった後にスダンマ長老に伺いました。
  

ニャーナサーラ長老の説法の大意


 イスラム教徒は、日に五回礼拝し、女性は布をかぶります。女性の仕事は子供を生むことだとされ、生涯に何人もの子供を産みます。妻帯は四人までできます。
 
 金曜日には必ずモスクに行きます。商売をやっている人は店を閉めて、モスクに行きます。商売より先に、まず信仰なのです。
 
 それに比べあなたたち佛教徒はどうでしょうか。五戒も守らず、今の法要でも受戒の時にはうろうろ歩いたり、大事な法要の時でもお金の方が大事だとばかり「仕事があるから行けません」と。
 
 また、在日スリランカ人の中でもそれぞれ小さなグループを作り、その人たちだけで集まってそれぞれで寺に行ったり。こういうことが、佛教を壊していくのです。
 
 世界に、二千年以上同じ一つの宗教を持ち続けた国は、スリランカを置いて他にありません。スリランカ文化はテーラワーダ佛教文化です。その誇りを持って下さい。
 
 毎週寺に来いとは言いません、せめて月に一度は、寺に来てお釈迦さまの教えを思い起こす時間を持って下さい。お坊様の話を聞いて下さい。

2017-08-19

雨安居中佛道実践会の法話2 Mettānisaṃsasuttaṃ


(これは動画の書き起こしです)

Mettānisaṃsa sutta


evaṃ me sutaṃ.
ekaṃ sanayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme.
tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi.
bhikkhavo ti.
bhadante ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ.
bhagavā etadavoca.

mettāya bhikkhave cetovimuttiyā, āsevitāya, bhāvitāya, bahulīkatāya, yānīkatāya, vatthukatāya, anuṭṭhitāya, paricitāya, susamāraddhāya, ekādasānisaṃsā pāṭikaṅkhā.
katame ekādasa.

1. sukhaṃ supati.
2. sukhaṃ paṭibujjhati.
3. na pāpakaṃ supinaṃ passati.
4. manussānaṃ piyo hoti.
5. amanussānaṃ piyo hoti.
6. devatā rakkhanti.
7. nāssa aggi vā visaṃ vā satthaṃ vā kamati.
8. tuvataṃ cittaṃ samādhiyati.
9. mukhavaṇṇo vippasīdati.
10. asammūḷho kālaṃ karoti.
11. uttariṃ appaṭivijjhanto brahmalokūpago hoti.

mettāya bhikkhave cetovimuttiyā, āsevitāya, bhāvitāya, bahulīkatāya, yānīkatāya, vatthukatāya, anuṭṭhitāya, paricitāya, susamāraddhāya, ekādasānisaṃsā pāṭikaṅkhā ti.

idamavoca bhagavā, attamanā te bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandunti.

2017-08-18

雨安居中佛道実践会の法話1 Mittānisaṃsasuttaṃ


(これは動画の書き起こしです)
 

皆友達になると、どういう良いことがあるのですか?

 
 今日は皆さんが八斎戒を受けて佛道を実践している中、法話を聴きたいと思って、先ほど慈悲について質問がありました。慈悲というのはパーリ語でメッターです、メッターという言葉の意味は何ですか、という質問でした。
 
 この前ちょうどその話をしていたところで、その時にはメッターという言葉の意味を、注釈書の中に出てくる説明を伝えました。mittassa bhāvo mettā. と注釈書には書いてあります。
 
 友であるということはメッターである。mitta というのは、友達ということです。友達ということは mettā。この世の中にいるすべての生命は、生きとし生けるものは自分の友達であります、というふうに考え、その心を持っていることがメッターの心を持っているということです。
 
 そういう説明をしましたから、質問が生まれたのだと思います。「皆友達です、ということがメッターということはなんとなくわかりますけど、皆友達になったらではどういう価値がありますか? どういう良いことがあるのですか?」という質問です。
 
 それには、「経典の中にある、mittānisaṃsa sutta を読んでみて下さい」と答えました。そして、それをもうちょっと詳しく聞きたいということで、mittānisaṃsa sutta を中心にしてお話ししたいと思います。

2013-07-09

信頼してはいけない人



Namo(ナモー) tassa(タッサ) bhagavato(バガワトー) arahato(アラハトー) sammā(サンマー) sambuddhassa.(サンブッダッサ)


Nāsmase(ナースマセー) katapāpamhi(カタパーパンヒ) nāsmase(ナースマセー) alika(アリカ) vādine,(ワーディネー)
Nāsmase(ナースマセー) attattha(アッタッタ) paññamhi(パンニャンヒ) atisante(アティサンテー) pi() nāsmase.(ナースマセー)

(Kukkuṭa(クックタ) jātaka)(ジャータカ)


悪行する人は信頼できない。
うそをつく人は信頼できない。
自分のことだけ考える人も信頼できない。
静かすぎる人も信頼できない。

2012-10-29

波羅蜜(Pāramī)(パーラミー)


波羅蜜

pāramī(パーラミー)



「波羅蜜」   pāramī(パーラミー)
「上波羅蜜」  upapāramī(ウパパーラミー)
「最勝波羅蜜」 paramatthapāramī(パラマッタパーラミー)



十波羅蜜 dasa(ダサ) pāramitā(パーラミター)



dānam(ダーナン) sīlanca(スィーランチャ) nekkhammam(ネッカンマン)

paññā(パンニャー) viriyena(ウィリイェーナ) pancamam,(パンチャマン)

khanti(カンティ) saccamadhiṭṭhānam(サッチャマディッターナン)

mettupekkhātimā(メットゥペッカーティマー) dasa.(ダサ)



1. 布施 波羅蜜  dāna(ダーナ) pāramī(パーラミー)


2. 持戒 波羅蜜  sīla(スィーラ) pāramī(パーラミー)


3. 出離 波羅蜜  nekkhamma(ネッカンマ) pāramī(パーラミー)


4. 智慧 波羅蜜  paññā(パンニャー) pāramī(パーラミー)


5. 精進 波羅蜜  viriya(ウィリヤ) pāramī(パーラミー)


6. 忍耐 波羅蜜  khanti(カンティ) pāramī(パーラミー)


7. 真実 波羅蜜  sacca(サッチャ) pāramī(パーラミー)


8. 決意 波羅蜜  adhiṭṭhāna(アディッターナ) pāramī(パーラミー)


9. 慈 波羅蜜   mettā(メッター) pāramī(パーラミー)


10. 捨 波羅蜜   upekkhā(ウペッカー) pāramī(パーラミー)



★10×3=30

2011-05-08

吉祥経

◎善い人と仲良くしてください

お釈迦様はアングッタラニカーヤで「善い人」について次のように述べています。

Sucintita cinti ca hoti
Subhaasita bhaasi hoti
Sukkata kammakari hoti

善いことを考える
善いことを話す
善いことを行う

善い人とはいつも善いことを考え、善いことを話し、善いことを行います。
また、次のことも述べられています。

Nahi yati puriso nahina sevi
Naca haayetha kadaaci tulyasevi
Setthaa mupanamam udeti khippam
Tasmaa attano uttarim bhajetha

自分より愚かな人と生活すると 自分も愚かになる
自分と同じ程度の人と生活すると それ以上愚かにならない
自分より智慧のある人と生活すると 立派な人になる
だから いつも自分より智慧のある人と生活した方がよい
 
さらに、サッタクンバジャータカには次のように書かれています。

Tagaranca palaasena
Yonaro upanayhati
Puttaapi surabhi vaayanti
Evam dhirupa sevanaa

よい香りのあるものを葉に包んでおくと
その葉からよい香りがでる
そのように、善い人と仲良くしていると
自分から名誉の香りがでる

ある日、アーナンダ長老はお釈迦様に言いました。
「お釈迦様の教えが受け継がれ広まってゆくのは、半分は善い人々のおかげです」

お釈迦様はアーナンダ長老の言葉を強く否定ました。

“Maa hevam Aananda! Maa hevam Aananda! Sakala mevahidam Aananda, Brahmachariyam yadidam kalyaaza mittataa.”

「アーナンダよ、そうではない!そうではない! 仏教が受け継がれてゆくのは、(半分ではなく)すべて善い人たちのおかげです」

善い人とは仏陀です。そして阿羅漢・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・善い両親・善い先生です。善い人の中でも最も善い人はお釈迦様です。
お釈迦様は自分を殺そうとしたアングリマーラやナーラーギリ、31人の射手に対しても分け隔てなく悟りへの道を教えました。

昔の人はこう言いました。「善い人は困っている人を助けます。自分が死ぬときでも他の人を助けます。白檀の木は切られると枯れて死んでしまいますが、最後に鋸の刃に良い香りを残します」

ここで皆さまに特にわかって欲しいことがあります。いくら名誉や地位があっても、善悪の判断ができない人は、善い人、立派な人ではありません。
善い人、立派な人というのは、まわりに愚かな人がいたら、その人を善悪判断ができるよう導いてあげられる人です。そのような善い人になれるよう、皆さまもぜひ努力して欲しいと思います。


◎尊敬すべき人を尊敬してください

ここで尊敬すべき人というのは、仏陀、法(仏陀の教え)、僧、両親、先生、年上の人のことです。
仏塔、菩提樹、仏像、仏画を尊敬することは、お釈迦様を尊敬することです。尊敬すべき人を尊敬する人は、大きな功徳を積むことができます。

サンユッタニカーヤ(相応部)には次のように述べられています。

尊敬の心で仏法僧を崇めると
非常に多くの功徳が積めます
それはどんなに多くの富や財産を手に入れるよりも
すばらしいことです

(仏法僧に礼拝するためにお寺に行くとき、尊敬の心をもって行くなら、その功徳は、たくさんの富や財産を手に入れるよりも価値のあることです)

Titthante nibbute caapi samecitte samam phalam
Cetopasaada hetumhi sattaa gacchanti suggatim

お釈迦様が生きているときでも涅槃に入ったあとでも、お釈迦様に礼拝することの功徳は同じです。

年上の人たちに尊敬することについて、ティッティラジャータカの中に次のように書かれています。

Ye vuddhaa mapa caayanti
Naraa dhammassa kovidaa
Dhittheva dhamme paasamsaa
Samparaayeca suggatim

年上の人たちを尊敬する善い人は
他の善い人に尊敬されます
そして死後、天国に生まれます

Abhivaadana silissa
niccam vuddhaa pacaayino
cattaaro dhammaa vaddhanti
ayuvanno sukham balam

年上の人たちを尊敬する人は
長生きします
いつも美しく若々しいです
いつも幸せな気持ちで過ごせます
いつも健康です

仏法僧、尊敬すべき人たちを尊敬していると、そのことによって貧・瞋・痴の三大煩悩が少しずつ消えていきます。皆さまもいつも尊敬する心を持ち続けてください。


三宝のご加護がありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

Saadhu! Saadhu!! Saadhu!!!



2011-03-07

吉祥経(Maṅgalasuttaṃ)


はじめに、どのようにして「吉祥経」ができたかということについてお話いたします。

昔、人間界で「吉祥」(幸福を運んで来るもの)とは何かという議論がおこりました。
「吉祥とは良いことや、めでたいことが起きる前兆だ」と、3つの意見で対立しました。

Dhitthi maṅgala   それは縁起のよいものを見ることである
Suta maṅgala    それは縁起のよい声や音を聞くことである
Muta maṅgala      それは縁起のよい香りを嗅ぐことである

その論争を守護神達が聞いていました。守護神達の間でも3つの意見に分かれて論争が続きました。そしてそれを聞いていた他の神々界からアカニッタカーという梵天界までもがこの3つの意見に分かれて対立をしてしまいました。

神々の王サカ王(帝釈天)は、これらの話を聞いて、
「いったいこの論争は誰が始めたのか?」 と神々に尋ねました。

「この論争は人間が始めました」 と答えました。

サカ王は 「それではこの問題を誰かお釈迦様に尋ねた者はいないのか」 と尋ねると、
神々は 「お釈迦様には誰も尋ねに行っていません」 と答えました。

サカ王は、「お釈迦様の考えを聞かないということは、火箸を持っているのにそれを使わずにわざわざ素手で熱い物を掴むようなものだ。すぐにお釈迦様のところに行ってお考えを聞いて来なさい」 と言いました。

神々は祇園精舎におられるお釈迦様を訪れました。そしてお釈迦様に次のように聞きました。

Bahū devā manussā ca, maṅgalāni acintayuṃ;
Ākaṅkhamānā sotthānaṃ, brūhi maṅgalamuttamaṃ
(Maṅgalasuttaṃ)

多くの天人や人々が、幸せを運ぶ吉祥とは何かを考えましたが
答えが見つかりません。最上の吉祥とは何か教えてください。
 (吉祥経)

これに対し、お釈迦様は38の吉祥を11の偈に分けて答えました。

Asevanā ca bālānaṃ, paṇḍitānañca sevanā;
Pūjā ca pūjanīyānaṃ, etaṃ maṅgalamuttamaṃ. (Maṅgalasuttaṃ)

愚かな人と仲良くしないでください
善い人と仲良くしてください
尊敬すべき人を尊敬してください
この3つが最上の吉祥です。
(吉祥経)


1.愚かな人と仲良くしないでください

お釈迦様はアングッタラニカーヤ(増支部経典)で 「愚かな人」 について次のように述べています。

Duccintita cinti hoti
Dubbhaasita bhaasi hoti
Dukkata kammakaari hoti


悪いことを考える
悪いことを話す
悪いことを行う

愚かな人はいつも悪いことを考え、悪いことを言い、悪いことをします。
いつも自分の幸せだけを考えています。
愚かな人とは、善悪の判断ができず、智慧がなく、他人に迷惑をかける人です。
愚かな人とは、きちんとした生活をしていない人です。

人はつき合う相手によって、善い人になったり悪い人になったりします。同じ親のもとに生まれても、つき合う相手によって変わってしまいます。スリランカのお寺の日曜学校の1年生の教科書には、『サッタクンバジャータカ』の話が次のようにわかりやく書かれています。

森の中の木の上にオウムの巣がありました。そこに二羽の子供がいました。大風で巣が壊れてしまい、二羽の子供は飛ばされ、離れ離れになってしまいました。

ある日、王様が森に狩りに出かけました。その途中、森の中で道に迷ってしまいました。歩き疲れて木の下で眠っていると、一羽のオウムが飛んで来て「捕まえろ!盗め!殺してしまえ!」と叫びました。王様は恐くなってその場から逃げ出しました。すると、

また別のオウムが出てきて、王様に向かって言いました。「あなたは疲れていますね。どうぞこちらに来て休んでください。この水を飲んで、この果物を食べてください」。
この素晴らしい声を聞いて王様はとても驚きました。

そこにひとりの修行僧が現れ、王様にこう言いました。
「王様に話しかけてきた二羽のオウムは実は兄弟です。大風で巣が飛ばされ、このオウムは善い環境で育てられましたから善い性格になりました。前のオウムは悪い環境で育てられましたから悪い性格になりました」

同じ親から生まれても、このオウムのように 「誰に育てられたか」 ということによって、性格が良くもなるし 悪くもなるのです。

サッタクンバジャータカの偈には次のように述べられています。
(修行僧に育てたれたオウムはお釈迦様でした)

Yam yam hi raaja bhahati
Satam vaa yadi vaa satam
Sila vantam visilam vaa
Vasam tasseva gacchati


王よ、善い人と仲良くすれば
善い人となり
悪い人と仲良くすれば
悪い人となる
戒律を守る人と仲良くすれば
戒律を守る人となり
戒律を守らない人と仲良くすれば
戒律を守らない人となる


Puuti maccham kusaggena
Yonaro upamayhati
Kusaapi puti vaayanti
Evam baalupasevanaa


腐った肉を包んだ葉は、葉から悪臭がでる
そのように、愚かな人と親しくすると
その人から不名誉の悪臭がでる
(たとえ自分が悪いことをしていなくても、悪い仲間のなかにいれば、他人から不名誉を受ける)

吉祥経の教えの1行目は「愚かな人と仲良くしないでください」ということです。


2.善い人と仲良くしてください

お釈迦様はアングッタラニカーヤで「善い人」について次のように述べています。

Sucintita cinti ca hoti
Subhaasita bhaasi hoti
Sukkata kammakari hoti

善いことを考える
善いことを話す
善いことを行う

善い人とはいつも善いことを考え、善いことを話し、善いことを行います。
また、次のことも述べられています。

Nahi yati puriso nahina sevi
Naca haayetha kadaaci tulyasevi
Setthaa mupanamam udeti khippam
Tasmaa attano uttarim bhajetha

自分より愚かな人と生活すると 自分も愚かになる
自分と同じ程度の人と生活すると それ以上愚かにならない
自分より智慧のある人と生活すると 立派な人になる
だから いつも自分より智慧のある人と生活した方がよい
 
さらに、サッタクンバジャータカには次のように書かれています。

Tagaranca palaasena
Yonaro upanayhati
Puttaapi surabhi vaayanti
Evam dhirupa sevanaa

よい香りのあるものを葉に包んでおくと
その葉からよい香りがでる
そのように、善い人と仲良くしていると
自分から名誉の香りがでる

ある日、アーナンダ長老はお釈迦様に言いました。
「お釈迦様の教えが受け継がれ広まってゆくのは、半分は善い人々のおかげです」

お釈迦様はアーナンダ長老の言葉を強く否定ました。

“Maa hevam Aananda! Maa hevam Aananda! Sakala mevahidam Aananda, Brahmachariyam yadidam kalyaaza mittataa.”

「アーナンダよ、そうではない!そうではない! 仏教が受け継がれてゆくのは、(半分ではなく)すべて善い人たちのおかげです」

善い人とは仏陀です。そして阿羅漢・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・善い両親・善い先生です。善い人の中でも最も善い人はお釈迦様です。
お釈迦様は自分を殺そうとしたアングリマーラやナーラーギリ、31人の射手に対しても分け隔てなく悟りへの道を教えました。

昔の人はこう言いました。「善い人は困っている人を助けます。自分が死ぬときでも他の人を助けます。白檀の木は切られると枯れて死んでしまいますが、最後に鋸の刃に良い香りを残します」

ここで皆さまに特にわかって欲しいことがあります。いくら名誉や地位があっても、善悪の判断ができない人は、善い人、立派な人ではありません。
善い人、立派な人というのは、まわりに愚かな人がいたら、その人を善悪判断ができるよう導いてあげられる人です。そのような善い人になれるよう、皆さまもぜひ努力して欲しいと思います。


3.尊敬すべき人を尊敬してください

ここで尊敬すべき人というのは、仏陀・法(仏陀の教え)・僧・両親・先生・年上の人のことです。
仏塔・菩提樹・仏像・仏画を尊敬することは、お釈迦様を尊敬することです。尊敬すべき人を尊敬する人は、大きな功徳を積むことができます。

サンユッタニカーヤ(相応部)には次のように述べられています。

尊敬する気持ちで仏法僧を崇めると
非常に多くの功徳が積めます
それはどんなに多くの富や財産を手に入れるよりも
すばらしいことです

(仏法僧に礼拝するためにお寺に行くとき、尊敬の心をもって行くなら、その功徳は、たくさんの富や財産を手に入れるよりも価値のあることです)

Titthante nibbute caapi samecitte samam phalam
Cetopasaada hetumhi sattaa gacchanti suggatim

お釈迦様が生きているときでも涅槃に入ったあとでも、お釈迦様に礼拝することの功徳は同じです。

年上の人たちに尊敬することについて、ティッティラジャータカの中に次のように書かれています。

Ye vuddhaa mapa caayanti
Naraa dhammassa kovidaa
Dhittheva dhamme paasamsaa
Samparaayeca suggatim

年上の人たちを尊敬する善い人は
他の善い人に尊敬されます
そして死後、天国に生まれます


Abhivaadana silissa
niccam vuddhaa pacaayino
cattaaro dhammaa vaddhanti
ayuvanno sukham balam

年上の人たちを尊敬する人は
長生きします
いつも美しく若々しいです
いつも幸せな気持ちで過ごせます
いつも健康です


仏法僧、尊敬すべき人たちを尊敬していると、そのことによって貧・瞋・痴の三大煩悩が少しずつ消えていきます。皆さまもいつも尊敬する心を持ち続けてください。

三宝のご加護がありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

Sadhu! Sadhu!! Sadhu!!!