では一緒に佛陀の九徳をパーリ語で唱え、それから一回日本語で唱えましょう。
namo tassa bhagavato arahato sammā sambuddhassa.
namo tassa bhagavato arahato sammā sambuddhassa.
namo tassa bhagavato arahato sammā sambuddhassa.
itipi so bhagavā arahaṃ, sammā sambuddho,
vijjā-caraṇa sampanno, sugato, lokavidū,
anuttaro purisa-damma-sārathi,
satthā deva-manussānaṃ, buddho, bhagavāti.
sādhu! sādhu!! sādhu!!!
世尊は
阿羅漢(一切の煩悩を滅尽し、神々、人間の尊敬・供養を受けるに値する方)であり
正自覚者(完全たる悟りを最初に悟ってその悟りへの道を他に教えられる方)であり
名行具足者(8種の智慧と15種の行『性格に関する徳』が備わっている方)であり
善逝(正しく涅槃に到達した、善く修行を完成した、正しく善い言葉を語る方)であり
世間解(宇宙、衆生、諸行という3つの世界を知り尽くした方)であり
無上の調御丈夫(人々を指導することに於いて無上の能力を持つ方)であり
天人師(人間、超次元的存在である神々等一切衆生の唯一の師)であり
覚者(真理に目覚めた方、佛陀)であり
世尊(全ての福徳を具えた方)であります。
サードゥ! サードゥ!! サードゥ!!!
佛陀の九徳を唱えました。
佛教徒とは
この中で最初にあるのは「阿羅漢であり」ということですね。arahaṃ といいます、ということです。それを説明する前に、我々はどうして佛教徒になったのか、ということも考えなければいけない、と思います。
皆さん佛教徒になった色んな理由があると思いますけど、私たちが佛教徒になった一番目の目的は「解脱したい」ということですね。この苦しい世界から離れて幸福な解脱に至りたい、という気持ちで佛教徒になっている。だからその苦しい世界から離れるために、佛法僧に帰依しなければいけないと、お釈迦さまは教えています。お釈迦さまの教えをそのまま受け取って教えた通りに修行している方々に対して、我々は佛教徒といっています。お釈迦さまを信じてる、というのはあまり良くない言葉ですね。信じる必要はありません。
お釈迦さまは天人師、という言葉がありましたね。神々、人間、すべての生命の先生である、ということです。
他の宗教とは比べない方が良いとは思いますけど、キリスト教やイスラム教を見ると、神がいて、その間にイエス、イエスは神ではありませんね、神の子。それでイエス様は神の言葉を説いている、だから神から直接言葉を聞いているのはイエス様だけ。これでは本当に神が言ったのかどうか他の人にはわからない。それでも信じる人たちは信じてるんですから、ああ、神の言葉だ、と信じます。イスラム教も同じですね。ムハンマド、預言者、ナビーという人がいて、神の言葉を説いていく。いずれも神から直接聞いているのはその人だけです。他の人は聞いてません。
私たちはそうではなくて、お釈迦さまから直接聞いてるんです。間に誰も入っていません。まあ今はテーラワーダ佛教というようになっていますから、一応訳すときは「長老の教え」と訳しますが、長老たちは好き勝手に教えているわけではありません。お釈迦さまが直接弟子たちに教えたことを口伝で守ってきて、それを伝えてきましたから長老の教え、という言い方をするようになりました。
だから私たちは信じる、ではなくて、お釈迦さまから聞いたことを聞いて、それを理解して、ああこれは本当ですねえと自分でわかって、実践することにしています。
皆さんこの世界に住んでるんですから、信仰とか、信じるという言葉を使うことがあります。佛陀だけ信じてると使っても悪いということは言えません。信じる必要はない、ということだけきちんと頭に入れておいていただきたいです。
実際私も時々、信じる、信仰という言葉を、わかりやすく説明するために使います。でもその念じるとか信じてる信仰という言葉を使っているのは、理解して実践していくという意味で使っています。これからも時々使うと思いますが、その時にはその意味で、理解して尊敬しているということで信じるとか、信仰という言葉を使います。
お釈迦さまがおっしゃるのは、この苦しい世界から離れるためには、佛法僧のご加護しかありません、だから佛法僧に帰依しなければいけない、そうするとその佛法僧に帰依している人は必ず解脱できるようになります、ということです。そのためには、佛陀の九徳も理解しなければいけません。
私たちはいつも佛法僧に帰依して礼拝するとき、その佛陀の九徳、法の六徳、僧の九徳を唱えます。これを唱える時にはちょこっとでも頭に、パーリ語だけじゃなくて、意味も入るんだったら、それはとても大事なことです。
では阿羅漢という言葉を説明します。
清浄道論と注釈書
Visuddhimagga、清浄道論という経典があって、経典というか一応注釈書になります。お釈迦さまが直接教えたものではなくて、経律論という三蔵経の後で作られたものです。
紀元後5世紀頃スリランカのアヌラーダプラという時代にブッダゴーサ長老という、インドからスリランカにいらっしゃったお坊さんが書いた本で、簡単に言うとウィスッディというのは、涅槃という意味です。スッディはきれいな、浄、ウィは良い、良くきれいになるために、煩悩を全て消して解脱するための、という意味です。マッガは道。Visuddhimagga という本の名前を見ても、それは涅槃にいくための道を説明して書いてある本ですね、ということがわかります。
この本はテーラワーダの国々ではとても大切な本とされています。この中には色んな瞑想法や、佛陀の九徳も色々説明されています。
この経典がなぜ書かれたのかというと、それも面白い話がありますから、ちょっと説明します。
インドで佛教が無くなったとき、スリランカに佛教が伝わっていました。紀元前3世紀、2300年前にインドからスリランカに佛教が伝わりました。その後色々問題が起こって、インドから佛教が一回無くなったんです。
無くなったとき、南インドには少しだけお坊さんが残っていました。その残っていたお坊さんたちが、全ての経典は今スリランカにあるから、スリランカに行ってそれをもう一回インドに持ってきたい、ということで一人のお坊さんがスリランカに行ったんです。そのお坊さんがブッダゴーサ長老でした。
長老が行くと、パーリ語で全ての経典はありましたが、注釈書という、経典を説明して経典の中にある難しいところを説明してあった本は全てシンハラ語で書かれていました。だからブッダゴーサ長老はシンハラ語も勉強して、シンハラ語で書かれている注釈書をパーリ語に翻訳しても良いですか、とスリランカの長老たちに聞いたんですが、スリランカの長老たちはあまり気に入りませんでした。シンハラ語で書かれた注釈書をパーリ語に訳してはいけない、とまずは言いました。
では、あなたのパーリ語の能力はどのくらいかと確認したい。だから質問します、と。
antojaṭā bahijaṭā - jaṭāya jaṭitā pajā,
taṃ taṃ gotama pucchāmi - ko imaṃ vijaṭaye jaṭaṃ.
お釈迦さまの質問なんですけど、中にも問題があります、外にも問題があります。誰がどうやってこの問題に答えるんですか、と聞いたんですね。それに答えます。
sīle patiṭṭāya naro sapañño - cittaṃ paññañca bhāvayaṃ,
ātāpi nipako bhikkhu - so imaṃ vijaṭaye jaṭaṃ.
sīle patiṭṭāya naro sapañño ちゃんと三帰依して戒律を守っている智慧のある人間は、naro というのは人、人間という意味ですね、戒をちゃんと守って cittaṃ paññañca bhāvayaṃ 心を育てて智慧が生まれて ātāpi nipako bhikkhu 煩悩を燃やし尽くそうと思う賢い比丘は so imaṃ vijaṭaye jaṭaṃ こういう問題についてちゃんと説明しますよ、と。
戒律を守って瞑想して、それによって生まれた智慧で全ての問題に答えます、という答えをして、それをまた説明するために
1. どうやって戒律を守るのか
2. どうやって瞑想するのか
3. するとどうやって智慧が生まれるのか
この三つのことを説明するために、ウィスッディ・マッガという大きな本を書きました。
この本をスリランカの長老たちに出したら、ああ、あなたのパーリ語の能力はもの凄く立派なものですから、シンハラ語である経典全てをパーリ語に訳しても良いですよ、経典といっても注釈書ですね、経典はそのままパーリ語であったから問題はない。それでシンハラ語であった注釈書を全てパーリ語に訳したんです。その訳した本は今スリランカ、タイ、ミャンマー、他のテーラワーダの国々ではとても大切な本として使っています。
タイではウィスッディ・マッガは三蔵の中に入れています。スリランカでは三蔵には入れてません。経律論の外にある本として使っています。ミャンマーのお坊さんたちは、一番大事な経典として、今も使っていますね。
arahaṃ、阿羅漢の意味
そういう経典の中で、お釈迦さまの arahaṃ 阿羅漢ということはどういうことかと、教えています。
ārakattā hatattā ca - kilesārīna so muni,
hatasaṃsāracakkāro - paccayādīna cāraho,
na raho karoti pāpāni - arahaṃ tena vuccatīti.
と説明が始まります。その意味は日本語で唱えた通り、一切の煩悩を滅尽し、神々、人間の尊敬・供養を受けるに値する方ということなんですけど、それにまたもう少し意味が、五つの意味がありますね。
一つは全ての煩悩を消した人、という意味、kilesārīna so muni 全ての煩悩を消しましたから阿羅漢といいます。
次に hatasaṃsāracakkāro 輪廻転生は cakka 輪、saṃsāra は法輪と同じですね、生まれ変わりながら生まれ変わりながら行くこの輪廻転生のことを法輪に例えています。この法輪の中にある棒、スポーク、それは輪廻転生する全ての煩悩を表しています。だから煩悩を消すということは、このスポークを取る、ということですね。これをとった人という意味で阿羅漢。そうすると輪廻転生しない、廻らない、廻さない。
三つ、全ての供養、神々、人間、全ての生命からの供養を受け取るために良い、という意味。
四つ、隠れて悪いことを行うこともない。多くの人々は見えないと、誰も見てないんだったらまあどうでもいいやって、悪いことをするということはあります。そうやって悪いことをする人々の中で、お釈迦さまは隠して悪いことをする、ということもないんです。
五つ、全ての煩悩を無くした、それと同じようにもう一つの意味、言い方があって、煩悩という悪魔たちと闘って勝った人、という意味で阿羅漢といいます。これが五つの、阿羅漢という言葉の意味ですね。
では次に arahaṃ という徳とはどういうものかと、説明したいと思います。
ここからarahaṃ、阿羅漢の徳の説明が始まります
僧の九徳を唱える時、dakkhiṇeyyo という言葉がありますね。7番目、徳を積むために供えるものを受けるに値する。これも一見 arahaṃ と同じように見えます。アラハンという言葉の意味の中の、全ての人々から供養を受け取るために良い、という意味と何となく似ています。この dakkhiṇeya という言葉で言っている意味と arahaṃ という、似たような意味なんですけど、全然違うということは、理解してほしいところです。
全ての比丘サンガにお布施するということも偉大な功徳になるということはお釈迦さまが教えています。しかしお釈迦さまにお供えするといただく功徳はそれと全然違って、だから arahaṃ といいます。
どうして arahaṃ というのかというと、お釈迦さまはこの世の中で一番尊い、聖なる人、お釈迦さまより上の人は誰もいません。神々も、梵天も、帝釈天、天界の王様ですね、サカ王、その王様、帝釈天も四天王も、それから全ての上の生命たちが、お釈迦さまには必ず礼拝するんです。それはお釈迦さまが年下とか年上とか、一般の社会では年下の人は年上の人に尊敬しなければいけないということが決まっていますが、それと違って、お釈迦さまは年下でも、お釈迦さまより年上の人でも、お釈迦さまに尊敬しなければいけません。
尊敬しなければいけないということはお釈迦さまが今世で積んだ功徳ではなくて、前世、何万劫も十波羅蜜を実践してくる時、自分でやった良いことの結果としてそうなってるんです。それも縁起の教えと合っています。一応不思議な力なんですけど、それはお釈迦さまの arahaṃ という徳の力です。
シッダッタ王子として生まれた時から
この徳の力は、お釈迦さまがシッダッタ王子として生まれた時からありました。その arahaṃ、全ての人々の供養を受けるために良いという言葉には、食べ物や飲み物、色んな物をもらうだけじゃなくて尊敬を受けるということも、供養という言葉の意味の中に入っています。尊敬するためにも良い、最初から。
ウェーサーカ月の満月の日、シッダッタ王子が生まれた日、最初に梵天や神々が来て礼拝しました。菩薩として、王子様として生まれた時からもう礼拝してるんです。その礼拝を受けた後で北の方に七歩歩いていったということがありますね。それは私たちじゃなくてお釈迦さまがご自分で、経典の中で教えていることです。お釈迦さまの不思議なこととして教えてあります。
今は皆科学的に色々考えていますから、それはあり得ないこととか、赤ちゃんが歩くということは信じられませんとかいう人が沢山います。でもちょっと動物の世界とか見ると、牛とか、生まれたばかりに立つじゃないですか。それを例えにしても間違いではないと思います。
これは瞑想の智慧、それから佛法僧に帰依する力がないと理解できません。
七歩歩いていって
aggohamasmi lokassa - jeṭṭhohamasmi lokassa,
seṭṭhohamasmi lokassa
ayamantimā jāti natthi dāni punabbhavoti.
私は世界の人の中で尊い、一番で、最高の人である。これは私の最後の生まれ、もう再び生まれることはない、と言いました。
カーラデーワラという、スッドーダナ王の先生で仙人が、お釈迦さまが生まれて七日目に、王に子供が生まれたと聞いてお城に来ました。マーヤー夫人と王様は子供であるシッダッタ王子を連れて先生の所に来ました。行って、私の先生に礼拝して祝福してもらおうと子供を前に出すと、シッダッタ王子の足は自然と上がって先生の頭の上に行った。それで先生も仙人ですからびっくりして、すぐに立って足の裏を見たんです。「あ、この人は将来とても立派な人になります。全ての煩悩を無くして佛陀になる。でもその時に私は生きていません」という、楽しいことと苦しいことが見えたので、最初に笑ってその後泣きました。
王様はびっくりして、先生はどうして笑って、その後泣いたんですかと聞いたら、「この子は将来必ず佛陀になって、世界の人々に悟りの道を教える人になります。でもその時に私は生きていません。悟りを開くことはとても良いことですから楽しく笑ったんですが、その時に私はもう生きていませんから泣きました」と答え、この子から私は尊敬してもらうことはできません、私から尊敬しなければいけないということで子供に礼拝しました。
それを見たお父さんも子供に礼拝しました。それは、この歴史の中で、お父さんが自分の子供に礼拝したということ、生まれて七日目のスッドーダナ王の最初の礼拝です。父である王が、お釈迦さまが佛陀になる前に三回礼拝したことがありますが、それは阿羅漢であるという、arahaṃ という徳を持っていたから起こったことだと、経典の中で言われています。
それはaccariyabbhutasutta、中部経典の中でお釈迦さまが教えています。accariyabbhutasutta というのは不思議なこと、お釈迦さまの人生の中で起こった不思議なことを教えています。だいたいこの九徳を説明する時には不思議なことを話すことになります。それを信じるか信じないかということは、皆さんの考え方です。信じるも信じないも、絶対信じて下さいということもありませんが、我々は佛教徒として、お釈迦さまはこういう人だなあということを理解しているんです。だから私たちはそのことをその通りに起こったと思っています。どうしてかというと、好き勝手に後で作られたものではなくて、ちゃんとお釈迦さまの口から説かれた経典の中にあることですから、そうやって思っているんです。
阿羅漢という言葉に、そういう不思議な力があります。
もう一つ不思議なことがあります。
お坊さんとか他の人たちにお布施するとその功徳をどうやってもらうか、その結果がいつもらえるかということはわかりません。でもお釈迦さまに、お釈迦さま、それに正自覚者、独覚佛陀、阿羅漢という全ての煩悩を無くした人たちにお供えすると、その結果はこの生きている間、その場で、今世でもらうことができるということがあります。それも阿羅漢よりも、独覚佛陀よりも、お釈迦さまに何かを差し上げると、その結果はその場でもらえます。それはお釈迦さまの不思議な力で、だから阿羅漢といいます。
他の阿羅漢たちや独覚佛陀とか、阿羅漢になった方々にもその力はあるんですけど、それは arahaṃ という意味ではなくて、aggadakkhiṇeyya 一番尊い布施という意味で、さっき言った dakkhiṇeyya という意味で使っています。お釈迦さまの場合はその徳のことは阿羅漢である、と使っている。その意味は、お釈迦さまの前で何かを差し上げるとその結果はその場でその人がもらいます、ということです。
こうやって説明してもなに言ってるかわけがわからないと思いますので、たとえ話で教えます。たとえ話というより、お釈迦さまの時代に起こったことです。
これも、いきなりお釈迦さまの徳を説明するんじゃなくて、阿羅漢、独覚佛陀、それから正自覚者という、その三人の徳を説明していきます。そうするとわかりやすいんじゃないかなと思います。
阿羅漢にもお布施をすると沢山の功徳がもらえる。それにも色々な話があって、古い経典ではなくて佛説というか、スリランカでは歴史の本としても使っている、ラサワーヒニーという、1500年前に書かれた本です。タイ、ミャンマー、スリランカ、どこのテーラワーダの国でも使っている本で、それには色んなエピソード、物語が書かれています。その時代に書かれた本ですから、その時代の長老たちが書いたものです。
ナーガディーパの60人の比丘とナーガー
スリランカのナーガディーパという、北の方に小さな島があります。その島に住んでいた60人の比丘たちが阿羅漢になった話です。
そのナーガディーパという島にナーガーという女性がいました。その女性はとても貧乏な人で、人の家で働いて生活していました。
そのナーガーという女性は一人の家からお金を、その時は金(きん)を使っていましたから、60金を借りて、その代わりにその家で召使いみたいに働いていました。
ナーガディーパには大きい佛塔があります。ラージャーヤタナ佛塔といって、お釈迦さまが座って説法した椅子を祀って作られた佛塔です。
60人の比丘がその佛塔へお参りに行って托鉢に出たんですけど、誰も食べ物をお布施しない。何もなくて他の所に托鉢に行こうかなあと思って空の鉢を持って持って村から出ようとしているのを、このナーガーという女性が水を汲むために水瓶を持って歩いている時に見ました。
お坊さんたちが托鉢しているのを見て彼女は「なにかもらいましたか?」と聞きました。お坊さんたちは「ない」とは答えないで、「まだ午前中ですよ」と答えました。この言葉で、この人たちは何ももらっていないということがわかって、私は貧しくて何も持っていません、でもこの比丘たちはお釈迦さまの教えを聞いて実践して修行している人たちです、どうか助けてあげたい、だから何か差し上げなければいけないと思ってそのお坊さんたちの前に行って自分が持っていた水瓶を置いて、「私があなたたちのために何か作って持ってくるまで、この水瓶をここに置いておきますので待っていて下さい」と言って、自分が働いている家に行ってまた60金を貸して下さい、と。
家の人は、前に借りた物も返していない、なぜまた60金ほしいと言うんですか、と。
ナーガーは、お金のことは心配しないで下さい、その代わりに私は夜も働きますのでお金を貸して下さい、ということでお金を借りて色んな家に行って、1金1金、60の家に渡して、ご飯を作ってお坊さんたちに差し上げて下さいと言ってまわり、お坊さんの所に来て「ご飯ができました、どうぞいらっしゃって下さい」と案内しました。
その時自分がどうやって食事を準備したか、ということもお坊さんたちに話しました。話して、帰って行きました。
そこにいた一番上の長老は、全ての他の長老たちに、「あの人は私たちのお母さんでもない、お姉さんでもない、親戚でもない、知ってる人でもない。どうしてこんなに、お金を借りてまで私たちにお布施したんですか。それは、私たちが聖なる人だと思ってお布施したんです。私たちはこの人のために、解脱するまではこの食事を食べてはいけない。だからがんばりましょう」と言って近くにあった森の中に行って、一人一人それぞれ鉢を置いて解脱して阿羅漢になってからこのご飯を食べるべきだと、一生懸命瞑想を始めました。
それまでもずーっと瞑想して修行してきたお坊さんですから、あの女性の言葉を聞いて、とても大変な思いをして用意してくれたご飯ですからその人の役に立つために受け取らなければいけない、とすごく努力して、がんばって瞑想を始めました。そして皆悟りを開いて、阿羅漢になることができました。
この比丘たちが阿羅漢になってもまだ午前中だということがわかりましたので、喜んでいただいた食事を食べました。
比丘たちが食べているのを見ていた森の木に住んでいた神々たちは、大きな声でサードゥ!と三回唱えました。全ての煩悩を無くして阿羅漢になったなあ、と。
その声をその時スリランカの国を治めていた王様のお城に住んでいた守り神が聞いて、その守り神も三回サードゥ!と唱えました。その声を聞いた王様は、「どうしてこんな時間にサードゥ!サードゥ!サードゥ!と言うんですか」と守り神に聞くと、その神は全ての話を王様にしました。
王様はそのことを聞くと、家来に言ってそのナーガディーパという島に行かせて、そのナーガーという女性を連れてこさせて話を聞くと、色んな物を沢山、財産もあげました。
するとナーガーは借りたお金も返すことができ、良い生活をしながら佛教の修行をして、死ぬと天界に生まれた、という話があります。阿羅漢たちが住んでいた時代の話ですね。
阿羅漢に何か差し上げるとどんな結果がもらえるか、ということがこの話でわかります。こういう話は沢山あります。お釈迦さまの時代にも。例えばマハーカッサパ長老に差し上げたらその場で色んな物を結果としてもらった話とか。そういう話をしていると時間がかかりますから、次に独覚佛陀にお布施をするとどんな功徳がもらえるか、という話をします。