2019-01-04

佛陀の九徳 ~ 正自覚者3、十力智2


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

遍趣行智 sabbatthagāminī paṭipadā ñāṇa


 3番目の智慧です。 sabbatthagāminī paṭipadā ñāṇa。輪廻転生をする生命が良い所に生まれることも悪い所に生まれることも、業によって起きます。それがなぜそうなるのか、良いところに行くにはどうすべきか、がわかる智慧です。

 例えば、みんな一緒に善いことを行うことがありますね。みんなで一緒に冥想したり、お布施式を行ったり、いろいろ一緒に功徳を積むことができます。しかし、世の中には一緒に悪いことをすることもあります。

 たとえ話でいうと、日本とかスリランカではなくてアフリカとかだと、原始人みたいな人たちいますね。ああいう人たちは村の人々でみんないっしょに動物殺したりしてますね。そうやって村の人々はみんな一緒に動物を殺す、ということはみんないっしょに悪いことを行っていることになりますね。でもその時はみんな同じ心を持ってその悪いことをやってるわけじゃないんです。誰かが、まあ殺しましょうと言ったから、または呼ばれたから参加したかもしれない。殺すのが好きだから、楽しむために参加した人もいるかもしれない、そのようにそこに参加する気持ちは、人によって違います。

 みんな同じ悪行為を行ってるんですけど、参加する気持ちはそれぞれ違いますから、結果をもらう時は違う結果を受けることになります。でも、私たちにはそれがわかる智慧がありません。お釈迦さまは、そういう人の結果が、同じ悪行をしたんですけど、もらう結果がどんな結果になるのかということが、ちゃんとわかるんです。

 善い行為の時も同じですね。

 たとえばみんな一緒にお布施を差し上げましょうと、お寺に集まります。でもみんなで行う時、自分の心が、どう思っているかということによって、もらう功徳が多くなったり少なくなったりします。それはアビダンマを勉強する人々がいれば、まあよくわかると思います。

 例えば somanassasahagata diṭṭhigata asaṅkhārika citta、sasaṅkhārika citta という心がありますね。asaṅkhārika心というのは、自分一人で決めて善いことを行う、sasaṅkhārika というのは自分一人で決めるんじゃなくて、誰か一緒にやりましょう、と声をかけられて一緒に連れられて行う、と。そうすると功徳が高くなったり低くなったりするんですね。他の人が言ってやるよりも、自分で考えてやったほうが一番良い、ということです。

 だからそうやって悪いことでも善いことでも、行う時にみんながもらう結果はそれぞれ違います。それがどうやって別になったかということは、一般の我々にはわかりません。でも、お釈迦さまはそれはちゃーんとわかっている、だからお釈迦さまはその sabbatthagāminī paṭipadā ñāṇa という智慧を持っている、ということです。

 みんな一生懸命冥想してますね。お釈迦さまがいたら、お釈迦さまはちゃーんと「あ、この人は正しい冥想してますか、この人はこの瞑想によって預流果に入りますか」ということがわかるんです。だからお釈迦さまは説法して、冥想を教える時には、ちゃーんとその人々に合うように教えることができるんです。たくさんの人に説法している時でも、その中でちゃんとその説法を聞いて悟りを開くことができる人たちが何人いるかと見て、その人たちに理解できるように説法するんです。他の人たちが理解してもしなくても関係ありません。悟りたい方々に悟りを開くことができるように説法するんです。

 そうやって、みんなを区別して理解して観る力をお釈迦さまは持っていたんです。だからお釈迦さまは正自覚者であるということを言います。それが3番目の智慧ですね。

nānādhātu ñāṇa


 それから4番目。nānādhātu ñāṇa。 nānādhātu という言葉は、説明しなければいけませんね。

 dhātu というのは例えば地水火風、四大ですね、すべての形があるものはこの四つのものでできてるんです。この四つのかたまりでできていますから、loka というんです。世界はその四つのものでできていますから、それは壊れやすいと言われます。

 世界のことはバーリ語で lokadhātu といいます。この色々なものはいろんなふうにできているんですね。その四つの地水火風、四つのものは一緒になって固まってできてるんです。
 地、paṭhavī ですね、硬い、という意味、地。āpo 水と書くんですけど、流れるものという意味ですね。tejo 火と書くんですけど、熱があるものということですね。それから vāyo 風と書きますけど、なにもないということです。空ということばもあるんですけど、私たち佛教では空という意味にはとらないんです。空気がある、という意味ですね。空がある、というと何もない、空っぽ、何もないんですから、風が入るんです。

 この世の中にあるものは、できているものは、触ってみると、それはいろんなものが四つのもののかたまりなんですけど、硬いものには地、が多いんです。だから硬く触れるんです。流れるものにも地水火はありますけど、流れるものが多いから、流れるように、水とかジュースとかが見えるんです。だからいろんなものにその中の一つが多いんですね。私たちの体も同じです。体の中の骨とかは硬い、だからそこには地が多いんですね、硬いものが多い。だからそうやって体はできているんです。

 それは簡単に私たちに説明することができるんですけど、お釈迦さまはちゃんとなにを見ても、これはどういうものが多いですかって区別することができるんです。お釈迦さまには、例えば木、といったらちゃんと実が出る木とかだったら、この木はどんな木ですか、どういう木ですか、どういう実が出ますか、どういう花が咲きますか、どういう地水火風のどの部分が多いですか、花はこの色になるためにこういう地水火風のどっちが多いですかとかね、全部区別して教えることができる力を持っていいます。

 だからお釈迦さまにはこの nānādhātu、anekadhātu nānādhātu ñāṇa と説明してあります。そういう智慧がある、と。わかりましたか?その智慧のことは。その智慧はお釈迦さまにしかないんです。正自覚者にしかありません。阿羅漢たちとか独覚佛陀にはこの智慧はないんです。だからここで言っている智慧は、すべて正自覚者にしかない智慧です。

sattānaṃ nānādhimuttika ñāṇa


 5番目の智慧、智力。sattānaṃ nānādhimuttika ñāṇa といいますね。nānādhimuttika というのは、私たちには人を見てその人はどんな人ですかって理解できません、どういう人かはわからない。でもお釈迦さまはそうではありません。お釈迦さまは人を見るとどんな人ですかと、今世で悟りを開くことができる人かどうか、ちゃんとわかるんです。その智慧のことを sattānaṃ nānādhimuttika ñāṇa といいます。sattānaṃ という言葉が入っています。

 経典、mahāsīhanāda sutta に

puna caparaṃ, sāriputta, tathāgato sattānaṃ nānādhimuttikataṃ yathābhūtaṃ pajānāti.

 とあります。sattānaṃ nānādhimuttika、生命の違いがわかります。この人はどんな人ですか、前世はどういうことをしてきた人ですか、等すべてわかってるんです。

 hīnādhimuttika と seyyādhimuttika という、二つの言葉があります。世の中には悪行をする人たち、猥らな生活をしている人たちのことを hīnādhimuttika というんです。良くない考えをする人たち、hīna というのは低いという意味ですね。低い考えを持っている人たちと、それから高い考えもってる人たちと、まあ区別することがでます。

 だから佛道修行する人たちはみんな高い adhimuttika といっている、解脱したいという気持ちで生活している人たちですね、そういう人たちと、低い生命というのは悪行しながら生活している人たち、そういう考えの人たちですね、それはちゃんと区別してわかる智慧をお釈迦さまは持っているんです。

 この seyyādhimuttika と hīnādhimuttika という、高い考えのある人たちは、高い考えある人たちと仲良くするんです。低い考えのある人たちは、低い考えのある人たちと仲良くするんです。それは世の中にある世間法というんです。世の中でそれは、いつでも変わらないこととしてあります。

 たとえで言うと、油は油と混ぜることができるんですけど、水と混ぜることはできませんね。それと同じように、高い生命は高い生命たちと仲良くするんです。低い生命たちは低い生命たちと仲良くするということです。

 人を見て私たちにはこの人はどういう人かなあとわからないんですけど、お釈迦さまはそれをよくわかっています。

 お釈迦さまの時代にあったたとえ話です。お釈迦さまが gijjakūta pabbata 霊鷲山に住んでいるとき、サーリプッタ長老がたくさんのお坊さんたちと一緒に、歩行冥想していました。モッガッラーナ長老も他の場所でたくさんのお坊さんと一緒に歩行冥想しています。お釈迦さまに見える他のところで、マハーカッサパ長老も歩行冥想をしています。アヌルッダ長老も同じように比丘たちと一緒に歩行冥想をしています。また別なところでプンナ長老も同じようにたくさんのお坊さんと歩行冥想しています。また別なところでウパーリ長老もアーナンダ長老もデーワダッタ長老も同じようにたくさんのお坊さんと一緒に歩行冥想をしてるんです。お釈迦さまは霊鷲山に住んでるんですね。みんなが歩行冥想しているのは、お釈迦さまに見えます。

 お釈迦さまはその歩行冥想しているお坊さんたちを見て、お釈迦さまの近くにいた他のお坊さんたちにこう言います。あそこでサーリプッタ長老と一緒に歩行冥想をしているお坊さんたちはみんな、とても大きい、優れた智慧を持っている人たちですよ、どうしてというと、智慧第一番はサーリプッタ長老ですから、サーリプッタ長老の周りにいた人みんな、智慧をたくさん持ってるお坊さんたちということですね。

 そしてモッガッラーナ長老と一緒に歩行冥想しているお坊さんたちみんな、神通力を持っているお坊様。マハーカッサパ長老と一緒に歩行冥想している人たちみんな、頭陀行、苦し~い修行してる、難しい修行をしている人たちですよ、と。アヌルッダ長老と一緒に歩行冥想しているお坊さんたちは神の眼、天眼、アヌルッダ長老はそういう神の眼、どこにあるものでも見ることができる不思議な力を持っていたんですね、だからそのお坊さんと一緒にいる人たちはその力を持っているんですよ、プンナ長老と一緒にいるお坊さんたちみんな、説法が上手です。お坊さんの中できれいな説法をする第一番ですから、プンナ長老は。だから一緒にいるお坊さんたちも、説法が上手です。ウパーリ長老は戒律の一番ですから、一緒に歩行冥想しているお坊さんたちみんな、ちゃんと戒律を守っているお坊さんたちですよ、と。アーナンダ長老といるお坊さんたちはみんなたくさんの法を聞いているお坊さんたちですよ、と。最後に、デーワダッタ長老と歩行冥想しているお坊さんたちも、デーワダッタ長老と同じように、悪い、戒律を守らない変なお坊さんたちですよ、と説明したんですね。

 そうやってお釈迦さまはちゃんと人々の位というか、すべて人を見てどのくらいの人ですかとちゃんとわかる智慧を持っていたんです。だからお釈迦さまは正自覚者であるということを、言います。これも他の人にはないんです。

 たとえば、サーリプッタ尊者も持ってるんです。智慧第一ですから持ってるんですが、お釈迦さまはみたいな能力は持ってないんです。

indriyaparopariyatteñāṇaṃ buddha ñāṇa


 六番目の智力は indriyaparopariyatteñāṇaṃ buddha ñāṇaṃ。

parasattānaṃ parapuggalānaṃ indriyaparopariyattaṃ yathābhūtaṃ pajānāti.

 この yathābhūtaṃ pajānāti という言葉はいつも言っていたんですけど、訳さなかったんですね。これは、皆さんわかってますね。ありのままに観る智慧、ということです。だからお釈迦さまはすべてありのままに観ている、ということです。

 indriyaparopariyatteñāṇaṃ、ここでお釈迦さまが言っているのは、indriya。

 七つの随眠という言葉がありまして、潜在的な煩悩というのが、七つあります。
一番が貪欲の随眠。欲情へ執着するということ。kāmarāga。
二番目が、paṭigha、立腹、怒ることですね。
三番目が、diṭṭhi。間違った見解、考えに執着してその考えを真実とすること。
四番目が、vicikicchā、疑問が起こる。
五番目が、māna、慢、思い上がり。
六番目が、bhavarāga、有貪随眠、有への欲望、なりたい、偉くなりたい、永遠に生きたい、ということ。
七番目が、avijjā、無明随眠、真実を知らないこと、無知の知。

 この七つを持っている人たちは、解脱の道に入っている人ではありません。この七つがあると、解脱の道に入ることもできません。だから、この七つを少しずつ、無くすために修行するんです。そうやって修行していく人たちの五力が強くなります。五力は分かりますか?

 五力はpañcabala とも言います、pañca indriya とも言います、同じです。五力、五根。

 saddhā 信、viriya 精進、sati 念、samādhi 定、pañña 慧。五つの力がありますね。saddhā-bala、viriya-bala、sati-bala、samādhi-bala、pañña-balaといった時には pañcabala と言います、saddha-indriya、viriya-indriya、sati-indriya、samādhi-indriya、pañña-indriya といった時は、pañca indriya、五根という言い方をします。

 人々の心の中にあるその五根を、別々に区別してお釈迦さまがわかるんです。

 例えば、saddha-indriya、信の心が強い人々がいたら、その人々に合う冥想法などを、お釈迦さまが教えてあげるんです。ヴィパッサナー冥想ではなくてサマタ冥想を教えるときは、サマタ冥想は誰にもどの冥想でも合うということは無いんですから、人々の考え方をよく聞いて質問してわかってその後で「あなたにはこうこうこういう冥想をした方が良いですよ」と教えるんですね。

 信の心が強い人たちに、dasa anussati という冥想を教えるんです。例えばbuddānussati 佛隨念、dhammānussati 法隨念、saṅghānussati 僧隨念とかdevatānussati 天(神)隨念とか教えるんです。佛の徳を観察する冥想してください、信の心が強い人たちには。それから、法の六徳を観察する冥想、僧の九徳を観察する冥想、神々の徳を観察する冥想等があるんです。そういう冥想をしてください、と教えます。それから、慈悲の冥想して下さい、と教えますね。

 そうやってお釈迦さまは、それぞれの人々に合うように、この人はどういう人ですか、この人にどんな教えを説いたらいいですかとちゃんと理解してわかっているんです。だから、この indriyaparopariyatteñāṇaṃ という智慧があるということですね。この智慧があると、その人たちに合うような教えをして、それで解脱の道に導くことができるんです。それもお釈迦さまが正自覚者の徳であるという一つの智慧です。

 お釈迦さまが解脱して49日間の後、初転法輪経を教えた後で、五人の比丘たちが出家して仏法僧がこの世の中に現れました。それで最初に61人の阿羅漢たちが生まれました。その61人の阿羅漢たちに、お釈迦さまは、色んな所に仏法を教えるために行って下さい、と言いました。二人は同じ道を通らないで、一人一人で行って下さいと。その60人の阿羅漢たちを色んな方向に行かせて、お釈迦さまはウルウェーラという所に行ったんです。

 行って木の下に座っている時、バッダワッギヤという王子さんたちと31人が、王女さんたちと一緒に、森の中で遊んでいました。そのうちの一人の王子様には、王女様がいなかったんです。だから別な女の人を連れて行っていました。しかしその女の人は、みんなが遊んでいる時、大事な宝物とか、あったすべてのものを盗んで逃げました。

 その31人の人たちは、その女はどこに行ったかと探してまわっている時、お釈迦さまが木の下に座っていました。それを見て、お釈迦さまのところに来て、「この辺に女の人が来ましたか?」と訊くと、「どうしてその女の人を探してるんですか?」と訊きました。自分たちの宝物を盗んで逃げたということを言ったら、他の人を探すより自分のことを探した方が良いんじゃないですか、とお釈迦さまは言うんですね。

 そうしたら王子さんたちは、他人のことを探すより自分のことを探した方が一番いい、と私たちも思いますと、そうしたら自分のことをどうやって探しますかと教えます、と言うと、この人たちもお釈迦さまに礼拝して座りました。そしてお釈迦さまがその人たちに説法します。その説法を聞いて31人もお釈迦さまの弟子になりました。次に出家した弟子たちのことですね。

 この話を見ると、他の人だったら、そうやって遊びに行っている人たちに声かけて説法したいとか、全然思わないんですね。遊びに行って説法したいとか。遊びに行ってるんですから、遊びに行っている人たちに何の説法するんですか、とか、いろいろ思うのが普通です。話しても、声をかけても遊びについて話すしかありません。

 お釈迦さまはそうではなくて、ちゃんとのその人たちの indriya、五力をちゃんと理解して区別して、この人たちはどんな五力を持っているんですか、五力はどうやって育ててるんですかとわかってるんですね。わかってるんですから、その人たちに合うように話をすることができるんです。

 簡単に言うと、indriyaparopariyatteñāṇaṃ という智慧は、すべての人々の考え、心の形をちゃんと理解して、その人たちに合うように説法することができる、という智慧を持っているんです。

 これも、お釈迦さまが正自覚者であるということのひとつの理由です。

スニータさんの話


 もう一つのたとえ話です。スニータという子供がいました。この子供は前世、独覚佛陀に悪口を言ったことがあります。独覚佛陀が托鉢をしているところを見て、なんでお前は托鉢してるんですか、体に皮膚の病気がある人みたいに、病気の傷が見えないように衣をちゃんと着てるんですから、それを隠してるみたいな形で、衣をかけて、どうして托鉢してるんですか、と。自分で田んぼを耕してご飯を作って食べたらいいんじゃないですか、とか色々悪口を言ったんですね。その結果としてこの子供は、色んな地獄に行ったり、人間界に生まれてもとても低いカーストの中で生まれて、偉い人の前に行くこともできない人として生まれてきてしまいました。

 しかしこの人は前世でとても良いことをしてきた人で、十波羅蜜も実践してきた人で、悟りを開く力を持っていたんです。お釈迦さまはいつものように朝、今日は誰を助けてあげようかと思ってお釈迦さまの知恵で世の中を見ると、そのスニータという子供が道の掃除しながら、それからトイレの掃除とかして、汚いものを運んでいるのを見ました。

 この子供を見て、この人は徳がある人だから、この子を助けてあげたいなあと思って、比丘たちと一緒にこの子供が掃除している道に来たんです。

 スニータはお釈迦さまが近くに来るまで見えなかったんです。近くに来るとお釈迦さまと比丘たちがたくさん並んで来るのを見てびっくりして、どうしよう、と。逃げるところもないし隠れるところもない、だから、どうしてますかと。手を合わせて、ごみ箱の横で見えないように座ってたんです。

 お釈迦さまも近くまで来て、スニータという名前で呼んで、あなたはこの苦しい世界から離れて、出家の世界に来たらいいんじゃないんですか、と聞いたんです。そのことを聞いただけでとても喜んで、怖い心もなくなって、「世尊よ、私みたいな低いカーストの人たちにも出家することができますか?できるんであれば、私を出家させて下さい」と言ったんです。

 そしたら、お釈迦さまは、ehi bhikkhu. 来たれ、比丘よ、という、これはお釈迦さまにしかできない、出家儀式があるんです。お釈迦さまは戒律の中では八つの方法で出家儀式ができると言ってるんですね。8番目にある出家儀式を、今行ってるんです。テーラワーダ佛教社会では。

 一番目の出家儀式は、お釈迦さまが、誰が出家したい人がいると、その人に右手を出して、来たれ、比丘よ、と呼ぶんです。その呼ぶことだけで、その人が比丘になります。それはお釈迦さまが持っている不思議な力です。それは ehi bhikkhu pabbajjā と言います。大乗佛典にも出てくる話ですね。

 お釈迦さまは来たれ、比丘よ、と呼んだんです。前世積んだ功徳を持っていたこのスニータは、自然に髪の毛を剃って、衣を着て、マハーテーラ、大長老みたいな恰好で、お釈迦さまの前に出たんです。

 お釈迦さまはそのスニータを自分のお寺に連れて行って、彼に冥想法を教えたんですね。最初に教えたのはサマタ冥想です。サマタ冥想をして pañca abhiññā aṭṭhasamāpatti という禅定に入ったんです。その後にヴィパッサナー冥想を教えたんですね。ヴィパッサナー冥想を教えたら、それを実践して、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果と、阿羅漢になって悟りを開いたんです。

 その悟りを開いた時、帝釈天が来て

namo te purisājañña
namo te purisuttama,
yassa te āsavā khīṇā
dakkhiṇeyyāsi mārisa.

人間の中で一番尊い人間になったあなたに礼拝いたします。
あなたはすべての煩悩を消して悟りました。
だからすべての人々が供養するものを
受けるに値する人になりました

 と、礼拝したんです。

 この話を見ると、前世に悪いことをした人なんですけど、その悪行をすべてなくしてお釈迦さまの indriyaparopariyatteñāṇaṃ という智慧でこの人の心には indriya、良い心を持っているということを見て、その人に合うように教えを説いて悟らせることができたんですね。

 これがお釈迦さまの indriyaparopariyatteñāṇaṃ という六番目の智力の力です。その力で、スニータさんは悟りを開くことができました。お釈迦さまには、人々の心を見てどんな心ですかと、どんな力を持っていますかというのを見て、それに合うように説法することができるという智慧を持っていました。

七番目以降の智慧


 七番目は、vimokkhasamādhisamāpatti ñāṇaṃ という智慧です。

 お釈迦さまが人々を見て、この人はサマタ冥想をするとどういう禅定に入りますか、今どこにいますかと、そういったことがすべてわかるという智慧。

 だから冥想している時、時々お釈迦さまはお坊様のところに行って「今、これやってください、今はこれをやってください」とアドバイスできるんです。一般のお坊さんにはそれはできません。冥想を教えるだけです。お釈迦さまは不思議なその力を持っていたんです。それを jhānavimokkhasamādhisamāpattīnaṃ saṃkilesaṃ vodānaṃ vuṭṭhānaṃ yathābhūtaṃ pajānāti. という言葉で説明してあります。

 人々が冥想している時、自分が何の立場に、預流果になったら、次に阿羅漢になる方法を教えてあげることかできる。禅定に入ったら、その禅定から次にどうやって悟るかということを説明することができる智慧ですね。その智慧がある。

 八番目。pubbenivāsa ñānaṃ という智慧。pubbenivāsānussati ñāṇa というのは、前世を知る智慧。それは他の阿羅漢たち、独覚佛陀にもある智慧なんですけど、お釈迦さまには anekavihitaṃ pubbenivāsaṃ anussarati、お釈迦さまはどのくらい過去を見ることができるかと言うと、見たいと思っただけ、数えきれないほど見ることができます。

 一般の阿羅漢たちは、百劫過去を見ることができるんですね。八十大阿羅漢たちには、十万劫、過去を見る力があるんです。それから第一、第二弟子である、マハーモッガッラーナ長老とサーリプッタ尊者は、それ以上劫を見ることができるんですね。しかしお釈迦さまは、数えきれないくらい劫を見ることができる、ということなんです。

 これを簡単にたとえ話で言うと、家が二つあるとします、その間に誰か立ってその家の方を見ていると、こっちの家からあちらのの家に行く人と、あちらの家からこちらの家に来る人がよく見えるように、お釈迦さまには、人々がその世から次にどうやって行くか、そこから次にどうやって生まれ変わりますかと、すべてのことを見ることができるという智慧がありました。

 お釈迦さまには、過去世のことを見ることができる智慧がありました。

 九番目の智慧。catūpapāta ñāṇa というのは、人間がどうやって生まれ変わりますか、ということを知る。例えばここで説法している、ここにいる皆さんは次に生まれ変わる時はどうやって生まれ変わりますか、ということがお釈迦さまにはわかったんです。人が死んだときは、その死んだ人は次どこに生まれていますかと、分かるんです。

 これはお釈迦さまにしかできないんです。他の人には、言うことはできません。そういう智慧をお釈迦さまは持ってるんです。

 最後の十番目、āsavakkhaya ñāṇa というのは、すべての煩悩を消す智慧、ということです。āsava は煩悩。お釈迦さまは、すべての煩悩を消して、阿羅漢になって、その上他の人が阿羅漢になる、すべての煩悩を無くす方法を教えてくれるんですから、お釈迦さまは āsavakkhava ñāṇā という十番目の智慧を持っているんです。

 お釈迦さまは、この十の智力を持っていますから、dasa bala 十の力を持っているということで、正自覚者である、という言い方をします。

 正自覚者というのは、そういう意味です。だから、ただ完璧に悟りを開いて他の人々にも教える、という意味だけではなくて、この十の力を持っているんですから、お釈迦さまは正自覚者だ、言います。

 これは中部経典のお経、mahāsīhanāda sutta で説明してあります。

 今日は sammā sambuddha という徳を説明しました。