2018-09-02

佛陀の九徳 ~ 正自覚者2、十力智1


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

dasabalañāṇa 十力智


 四諦をちゃんと理解しているという意味で、お釈迦さまは sammā sambuddha といいます。その四諦を理解した時に不思議な dasabalañāṇa 十力智といわれる智慧が生まれます。この十力智、説明するのはちょっと難しいんですけど、がんばります(笑)。

お釈迦さまの徳は考え切れない


 お釈迦さまは aṅguttaranikāya の catukkanipāta の中で、

buddhānaṃ, bhikkhave, buddhavisayo acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa.

 佛の徳は考え切れません、と教えてあります。誰かが佛の徳をもっともっと深く深く考えていきたいと、それをみんなに説明してあげたいと思うならば、その人は頭がおかしくなります。理解できないということですね。いろんなところで説明してあるものを理解できなくなって、それで頭がおかしくなることになります。だから私たちにできる力で、それを理解しなければいけないということですね。だからものすごく難しい。

mahāsīhanāda sutta 大獅子吼経


 十力智の説明は、中部経典の中にある mahāsīhanāda sutta にあります。mahā は大、sīhanāda はライオンの声という意味。

 お釈迦さまのことは narasīha という言い方もするんです。人間のライオン。森の動物の王様はライオンと言われているんですね。すべての動物の王様はライオンであって、ではお釈迦さまはすべての人間の大王様ですね、という意味で narasīha、nara というのは人間で、sīha というのはライオン。その意味でお釈迦さまに mahāsīha という言い方をするんです。

 ライオンの声という経典、大獅子吼経。この中で、お釈迦さまの十力智について説かれています。

ṭhānañca ṭhānato ñaṇa


 一番目の智慧は、

idha, sāriputta, tathāgato ṭhānañca ṭhānato aṭṭhānañca aṭṭhānato yathābhūtaṃ pajānāti. yampi, sāriputta, tathāgato ṭhānañca ṭhānato aṭṭhānañca aṭṭhānato yathābhūtaṃ pajānāti, idampi, sāriputta, tathāgatassa tathāgatabalaṃ hoti yaṃ balaṃ āgamma tathāgato āsabhaṃ ṭhānaṃ paṭijānāti, parisāsu sīhanādaṃ nadati, brahmacakkaṃ pavatteti.

 と説明してあります。まあ簡単に言うと、ṭhānañca ṭhānato ñaṇāṃ という意味ですね。

 日本語での説明はこうなります。処非処智力。道理と非道理とを洞察する智慧。即ち特に原因と結果の面で何があり得て何があり得ないか、どこまでで、どれだけか、という一切のものの範囲と限界に関する自然の法則と、様々な善悪の業、その果を受ける人の能力に関する論理の基準を知る。

 ṭhāna という言葉の意味は、こういうことがあるからこういうことが起こります、とはっきり理解できる智慧がある、ということですね。簡単に言うと。お釈迦さま、如来である世尊は、何かが起こったときはそれはどうやって起こりましたかとわかるんです。なにか起こらなかったら、どうしてそうならなかったんですかということも理解できる。

預流果


 例えば、預流果になった人は、必ず預流果になってるんですから、無常・無我・一切皆苦という三つのこと、三法印をちゃんと理解しているんです。だからこの世の中に永遠なるものは無いと、預流果になった人はちゃんとわかっているんです。その人がまた永遠なるものがあると信じるとか、そういうことは一切ない、ということがお釈迦さまにはわかっています。なので預流果になった人は、悟りの道に入ってるんですからもう地獄には行きません、ということがお釈迦さまにははっきりとわかっているんです。遅くても7回しか生まれません。8番目の生まれは無い。それは ratana sutta 宝経の中にも書いてありますね、預流果になった人には8番目の生まれは無い、ということが。お釈迦さまにははっきりとわかっているんです。逆に預流果になってない、普通の人間、聖なる道に入っていない人だったら、その人は何回も何回もまた生まれ変わるということもわかっているんです。

 預流果になった人はお母さんを殺したり、お父さんを殺したり、阿羅漢を殺したり、それからお釈迦さまに血を流させる、怪我させることですね、それとお坊さんを仲たがいさせる、そういうことは絶対にしない、預流果になった人は。pañcānantariyapāpakamma というんですね。(日本語で)五重罪ですか? 五重悪業。その五つの悪業をするとその生ではもう絶対に悟れない、次の生では必ず地獄に行きます、ということもはっきりしています。悟る力があっても、十波羅蜜を実践してきてあっても、悟れません。それには必ず結果を受けなければいけない。だから次の生まれは必ず地獄に行くということははっきり教えてあります。お釈迦さまはわかっているんです。

 たとえで言うと、阿闍世王、アジャータサットゥ王様は、もうほんとはお釈迦さまの教えを聴いて理解して悟る力を持っていたんですけど、お父さんを殺したんですね、だから今世で悟りを開くことができなかったんです。もう第一結集のためにもいろんなお寺を作ってお布施してお坊さんの世話をして、すべてやったんですけど、死んでから地獄に行きました。またもう何万劫もあとには弥勒菩薩が、マイトレーヤ、メッタ佛として生まれる前に、サッティッサラという名前の独覚佛陀になって悟りを開くことができます、とお釈迦さまが教えています。

 預流果になった人はその五つのの悪業は絶対にしません、ということはお釈迦さまにはわかっています。

一つの劫には一人の正自覚者しか生まれない


 それから、一つの劫の中では一人の佛しか生まれない、ということもわかっているんですね。最初になに劫と説明しましたね、あの劫はまた別ですね。mahābhaddakappa 大賢劫という劫の中には劫が五つあります。だからその一つには一人の佛が生まれますから、この劫は長いですね。長い劫のことは mahābhaddakappa といいます。

テーラワーダはパーリ語のままだと理解しやすい


 どう説明したらいいかわかりません(笑)。パーリ語を勉強するとわかると思います。我々はシンハラ語でもそれはそのパーリ語の言葉をそのまま使ってるんですね。タイでもミャンマーでもどこでも同じ。だから、いろんな言葉があって、その言葉でしか説明できません。阿羅漢といったら、どう説明したらいいでしょうか。arahant、もう悟った方という意味しか言えません。でも正しい言い方は、阿羅漢 arahant という言葉だけですね。私たちの国は結構昔、2500年前から佛教の国ですから、佛教の言葉は国語の中にたくさん入ってるんです。だからその言葉をそのまま使うと意味が理解できるんです。

 英語とか訳すときは、英語の事典ありますね、あれ buddha という言葉、私たち buddha といったらそれでまあ説明する必要はないんです。でもあの英語の辞書には2ページくらい、buddha という意味が説明してあるんです。英語で一つの言葉に訳すことができません、と。

 そういうことで、お釈迦さまは ṭhānañca ṭhānato ñaṇā という智慧があるといいましたね、日本語では言ってもわからないんですから、もし覚えたい人はせっかくなのでパーリ語で覚えて下さいね。

 それが一番目の智慧で、お釈迦さまはきちんと、理由は良いことも悪いことも、起こることも起こらないことも、道理と非道理の結果がちゃんとわかっている智慧があります。私たちにはその智慧はないんです。それは一般の人に生まれる智慧ではありません。お釈迦さまだけが持っている智慧。だから悟っている阿羅漢たちにもその智慧はない。お釈迦さまだけにある智慧ですね。その智慧があるから、正自覚者といいます。

十力智、二番目の智慧


 二番目の智慧。智慧というよりは智力、ですね。智慧の力と書いてあります。bala というのは力ですから。智力といいます。能力ですね。

puna caparaṃ, sāriputta, tathāgato atītānāgatapaccuppannānaṃ kammasamādānānaṃ ṭhānaso hetuso vipākaṃ yathābhūtaṃ pajānāti.

 と説明してあります。日本語の説明では、業異熟智力。業の果を洞察する智慧。即ち様々な環境の要因に関係する善業と悪業の錯綜した果を分析して、業の果を生ずる過程内部の詳細と関係を見ることができる。

 この智力というのは、お釈迦さまは過去現在未来で行ったすべての善行為悪行為の結果はどのようにあるかということがわかる智慧のことです。

 この kamma、業について説明することもとても難しいことです。

業についても考え切れない


 業についても aṅguttaranikāya の中では

kammavipāko, bhikkhave, acinteyyo, na cintetabbo; yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa.

 と説明されています。kammavipāka というのは業の結果ですね。悪業も善業も。業の結果は、bhikkhave 比丘たちよ、acinteyyo, na cintetabbo もう考え切れない、だから考え尽くすことはできません。 yaṃ cintento 誰か、それでも考え抜こうとしたら ummādassa、ummāda というのは頭がおかしくなるということです。だから教えてある通りに理解するしかないんですね。自分が好き勝手に教えるようになったら大変なことになります、ということです。お釈迦さまは悪業善業を行うとその結果はどうやって受けますか、ということがはっきりわかっているということですね。

アビダンマ ñāṇavibhaṅga での16の業の説明


 お釈迦さまはいろんな風に業について説明しています。アビダンマの中で、vibhaṅgappakaraṇa という本の中の ñāṇavibhaṅga というところで、業を16種類に分けて教えてあります。それも簡単に説明します。

1. gatisampatti


 その16に分けるときには、1番目、

atthekaccāni pāpakāni kammasamādānāni gatisampattipaṭibāḷhāni na vipaccanti.

 日本語で、漢字で名前はありますが、言っても意味がわからないから、意味の説明だけでいいですね。

 長期間では良い生まれ、または繁栄のある生まれを意味する。短期では行く末が良く、或いは事がうまく運ぶことを意味する。即ちその場合、その環境・状況・場所からその時の生き方の方向までが善の行為、善の繁栄、善果の出現に恵まれ、容易に善の果を生じさせる。

 わかりましたか?gatisampatti というのは、gati というのは生まれ、という意味ですね。私たちは manussagati というんです。人間界に生まれている。devagati と言ったら神々の中で生まれる、brahmagati と言ったら梵天界に生まれることですね。gatisampatti、sampatti という言葉もありますね。gati と sampatti。gati は生まれという意味で、sampatti というのはここでは良い、という意味でとるんですね。だから良い生まれとして生まれた時、悪業の結果は出てこない。

 例えば人間に生まれるような善行為の結果として、では人間に生まれたからといってただ善行為だけを行っているわけではありません。生きているときは悪いこともする、善いこともする。その両方の結果は、生きてる時も受けます、死んだ後にも受けます。悪業はすべてこの世に残して善行為だけ持っていくことはできません。全部持っていくんですが、天界に生まれたときは gatisampatti 良い生まれになりますから、天界に生まれた人は苦しいことはありません。悪行為の結果はあるんですけど、その結果を受けることができません。それは業によって起こることです。お釈迦さまがちゃんと理解して、アビダンマの中で私たちに説明してくれています。他の人にはこれを説明することはできません。お釈迦さまだから説明できるんです。

 さて人間 gati も一応 gatisampatti 良い生まれですね。だから人間として生まれた時でも悪業の結果を受ける時もありますけど、ほとんど悪業の結果は受け取ってないんです。それについて全部で16ありますから、説明します。もらう時もあるということね。ほとんどは人間界、天界、梵天界に生まれると悪業の結果は出ないということですね。完璧に出ないというわけでもないんですが、16全部説明するとわかります。

(結局この法話会では、8つだけ説明しています。あとは似たような感じということもあり、また時間の関係で、すべてを詳しくは説明なさっていません。)

2. upadhisampatti


 次に、

kammasamādānāni upadhisampatti.

 日本語言いますか、upadhisampatti 長期間には身体か美しく性格が良いことを意味し、短期では丈夫で健康なことを意味する。

 良い体を持って生まれることですね。upadhisampatti というのは生まれる時良い体を持って生まれると、きれいな人として生まれると悪業の結果は出ない、ということですね。きれいな体を持って、それから力もある身体を持って生まれてくると、悪業の結果は受けない。どこに行っても、あ、かわいい人、と皆の中で褒められて、なんでも周りの人々はやってくれるんですね。そういうことがあります。だからきれいな体を持って生まれると、力がある体を持って生まれると、悪業の結果は受けない、ということです。

 これを簡単に説明するには、人間ではなくて動物の話をした方がいいですね。動物の中で、犬、かわいいきれいな犬として生まれたら、苦しいことはなにもなく人間がかわいがって育てますね。きれいじゃないかわいくない犬として生まれたら大変です。自分でえさを探さなければいけない。だから悪業の結果はもらうことになります。でもきれいな体を持って動物の中で生まれると、生き方は楽になります。人間よりは、動物にたとえて言うとわかりますね。人間の中でも、そのことはあります。ただわたしたちには見えないだけ。きれいな体を持って生まれると、悪業の結果は受けない、ということですね。

3. kālasampatti


 3番目は kālasampatti です。長期間では繁栄の時代、或いは国が平和で安楽で、統治者が良く、社会の人々に道徳団結があり、善人が賞賛され、悪人が奨励されない時代に生まれたことを意味し、短期間では時、時間に正しく行ったことを意味する。

 kālasampatti、kāla というのは時間のことです。パーリ語で時計のことは kālamāna  時間を計るもの、という意味ですね。kāla という言葉は時間という意味で、ここでは期間と言った方がいいですね、間、長い間。例えば国が平和である時生まれたら、みんな良い生活ができます。国の王様が良い王様の時に生まれたら、みんな幸せに暮らすことができます。でも、kālavipatti ということもあって、それはまた別に、後で説明します。その時は、kālasampatti の時は、良い時間に生まれると、良い期間に生まれると、その悪業の結果は受けないということです。わかりますか?

4. payogasampatti


 次に payogasampatti、長期間には正しい道に熱心で努力して善く正しく行う。通常は正しい仕事を行い、善だけを行い、短期では、善い業を為せば十分に行い、原則に即して真剣に行い、そのことに適切な方法を用いるか基本的に善いことばかりを続け、更に善後を取り入れるので、容易に果が得られる。
 
 日本の佛教では方便という言葉があります。大乗佛典の妙法蓮華経では方便と使ってる意味はちょっとおかしいんですけど、こっちで方便というのは、たとえば、自分できちんと戒律を守りながら悪業をしないで善行為を行いながら生活していくと、自然に自分が守られる、ということです。それは法を守るものは法に守られる、といったことと同じように。自分は自分で守られることになります。一生懸命自分の力を使って、戒律を守りながら良い仕事をしながら一生懸命頑張っていると、悪業の結果はもらえないということです。方便というか、世の中、周りの環境に合わせてに善い生活をする、ということですね。

5. gativipatti


 次 gativipatti、長期間では、生まれが良くない、または繁栄のない生まれを意味し、短期間では行く末が悪く、或いは事がうまく運ばないことを意味する。即ちその場合、環境その状況その場所からその時の生き方の方向までが善の行為、善の繁栄、善果の出現に恵まれず、逆に悪の果への道を開く。

 gativipatti というのはさきほどとは逆で、悪い生まれという意味です。生まれが悪かったら、善行為の結果は受けられない。餓鬼に生まれたら、もう善行為を前世やっていても、その結果をもらうことができない。餓鬼の中に生まれてるんですから、餓鬼として苦しい生活をしなければいけない、ということですね。同じように動物の中でも、かわいくない、きれいじゃない動物として生まれたら、もう餌とかも自分で探さなければいけない、誰も面倒を見てくれない動物になります。

 gatisampatti の時、良い生まれの時は悪い結果は出なかったのと同じように、悪い生まれによって善行為の結果は生まれ出てこないんですね。善行為の結果はもらわないと、もっともっと悪い方に行くんです。悪い方に行くと、もう餓鬼として生まれたらまた餓鬼になって生まれる。それからまたそこから餓鬼になったり、畜生になったり、地獄に行ったり、もう gati は間違えたら結構大変なことになって、長~い、何劫も、苦しむことになるということです。

 これは業の説明ですからね、すべて kamma で起こっているわけではないと、お釈迦さまは教えていますね。

 kammaṃ satte vibhajati これには関係ないというか、一応お釈迦さまが説明する時は、

kammadāyādo kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇo yaṃ kammaṃ karissāmi, kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā tassa dāyādo bhavissāmīti.

 と教えてありますね。kammadāyādo 私たちの遺産は業です、kammayoni 私たちは業によって生まれます、kammabandhu 私たちは業を親戚としています、kammapaṭisaraṇo 業が守ってくれます、yaṃ kammaṃ karissāmi 誰が kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā kammaṃ karissāmi 善行為をしますか悪行為をしますか vā tassa dāyādo bhavissāmi それを結果として持っていきます、善業も悪業も持っていきますと、お釈迦さまは教えられます。

 しかしすべて業によって起こっているわけではありません、ということが、この16の話をちゃんと聞いていると理解することができると思います。

6. upadhivipatti


 upadhivipatti というのは、upadhisampatti で言ったように、汚い、きれいじゃない所に生まれるとね、きれいじゃない人として生まれると、良い結果がもらえないということです。例えば生まれる時病気になって生まれたら、それから生まれる時、まあ世の中にはあることなんですけど、お父さんがいない人として生まれたり、顔の形が変わって生まれてきたら、その人にはそれに合わせて良い結果はもらえない、ということですね。そういうともう苦しみしかありません、ということです。upadhivipatti というのは。

7. kālavipatti


 それから kālavipatti も kālasampatti と同じように、悪い王様の時に生まれたら、飢饉の時に生まれたら、大変なことになります。善行為をしていても善行為の結果はもらえない、ということです。

8. payogavipatti


 それから payogavipatti 良いとこに生まれても方便というか、周りに合わせる生活が良くなかったら、自分で良い仕事をしないで戒律を守らないで、お酒飲んだり、良くない遊び、パチンコとか、そういう生活をすると、良い人として生まれても、生活が悪いですから、苦しむことになるということですね。payogavipatti というのは。

 他には payogavipatti, gatisampatti, kammasamādāna, upadhisampatti, kālasampatti いろんなそういう同じようなことを何回も繰り返しながら教えてあります。

gativipatti を詳しく説明します


 テーラワーダの教えの中で大切なことなので、もう一度詳しく説明します。

 gativipatti というのは、たとえばたくさん良いことをしている人が死ぬ時、自分の子供に対して、自分が作った家が好きで、自分の畑や田んぼを愛していて、それを自分の子供たちがちゃんと守り続けていくかどうかを考えながら死んでいきます。そうするとその人は愛欲で、愛欲を持って死にましたから、生きてる時はたくさん功徳を積んでいても、死ぬ時は愛欲の心で死にましたから、餓鬼の中に生まれるんです。餓鬼の中に生まれてしまいます。これを gativipatti というんです。死ぬ時の心はきちんと育てなければいけないということですね。

功徳の本


 その為に、スリランカには今も日曜学校の子供達とか、ひとつの本を持っているんです。「功徳の本」という言い方をします。自分がなにか善いことをするとその本に書きます。例えば学校でボランティアで掃除しました、終わったらそれは日付と一緒に書く、お寺に行って八斎戒を守ったら、それも書きます。誰か道を渡ることができない、おじいさんおばあさんがいたらそういう人たちを連れて行って道を渡らせてあげたら、そのことも書いておく。そうやって子供の時から死ぬまで自分で行った善いことをすべて書く本、功徳の本としてね、昔からあります。その本を、年を取って歩くこともできなくなって病気になって倒れているときに、読むんです。自分でやった功徳を思い出して、そうすると心の中に、私は生きている時善いことを沢山しましたという、善い気持ちが生まれるんです。だから死ぬときは、その善い気持ちで死ぬことができます。

菩薩王も功徳の本を書いていました


 昔のスリランカの王様たちも、それをやっていました。王様たちは自分で読むんじゃなくて人に読んでもらうんですけどね。スリランカで大きな佛塔を作った王様、一応菩薩王とみんな思ってる王様ですね、その王様は次に悟りを開くマイトレーヤ、弥勒菩薩の一番弟子になるために修行しているとされています。本当かどうかわからないんですけど、それはスリランカの話ですから。佛典の中にある話ではないんです。でも、歴史の話を見ると、その王様は自分がした善いことをすべて書いていたんです。

 もう年を取って横になっている時、善いことを書いた本を読んでいるんです。その読んでいる時、もう死にそうになっている時、この王様に見えるんです。天界の車が来て、六つの天界から、六つの車が来て私たちの天界に来てください、私たちの天界に来てくださいと呼んでいるんです。横でお坊さんたちもお経を唱えていました。大王様ですからね。立派な寺とか、大寺派という言い方をすることができるように大きい佛塔とか造った王様ですから、お坊さんたちも大阿羅漢たちも祝福しているんです。

 それで王様は、王様にしか見えないんですね、神々は。だから手でちょっと待っていてください、と合図したんです。それでお坊さんたちはああ、もうお経はこれでいいみたいですねと、やめたんです。王様はどうしてお坊さんたちがお経を止めたんですかと聞いたら、手でもういいといいましたから止めたんですよというので、いいえ、そうではなくて、天界から神々が来ていろんな天界から私の天界に来てください、私たちの天界に来てくださいと呼んでるんです。どの天界が一番いいですか、とお坊さんに聞いたら、そこにいた阿羅漢たちは、そうしたら弥勒菩薩もトゥシタ天界にいるんですから、トゥシタ天に行ったらいいです、と言いました。

 しかし周りにいた人々はこの話を信じませんでした。王様はもう死にそうになって頭がおかしくなっていろいろ話してるんじゃないか、と言ったんです。王様は、私はうそを言ってるんじゃないんです、お前たちに見えないんだったら、花玉を持ってきてくださいと言って、トゥシタ天界から来た車にその花玉を投げたんですね。それで花玉が空中に止まった。神々は見えないんですけど、その花玉が止まっていることを見て、みんなやっぱり王様は天界に生まれますね、ということがわかったんです。それで天界に生まれたと言われてるんです。

 これはスリランカの歴史の中にある話です。スリランカの人々はその功徳の本という、本をまあみんな作ってるわけでもないんですが、日曜学校では子供たちに、それは善いことですから教えるんです。いろんな学校でもそれを教えているところはあります。

 だから死ぬとき、善い心を持って死んだ方が良いです。欲望のない心で。欲望の心で死ぬと、次の生まれは悪いところになります。それは gativipatti といいます。

upadhivipatti も詳しく説明します


 それから upadhivipatti、たくさん功徳を積んだ人でも、餓鬼みたいな汚い体を持って人間界に生まれたり、いろんな病気を持って生まれると、gati として生まれは良いところに生まれているんですけど、生まれは upadhivipatti という、生まれで良い体を持っていないんですから、たくさん功徳を積んだ人でも、その結果は受けることができない、ということです。

 それにはたとえ話があります。スリランカに昔いた、注釈書はスリランカで書いたものですから、スリランカの物語が多いですね。佛典、三蔵の中にあるたとえ話は、すべてインドのたとえ話になります。

 昔スリランカにいたある王様に、子供が生まれたんです。その子供が生まれた喜びを持って、お后さんに「願い事があったら言ってください」と言いました。お后さんは、今は願い事はありません、あとで願い事を言います、と言ったんですね。

 その子供が八歳くらいになったある日、鶏と遊んでいました。その時その鶏の足が目にぶつかって目が見えなくなった。でも王子様ですから、そのままお城で大きくなりました。十六歳になった時、その王子様のお母さん、お后さんですね、が王様の所に行って「子供が生まれた時、願い事があったら言ってくださいと言いました、その願い事を今言います。私の子を次の王様にしてください」と言ったんです。王様は「それはできません。目が見えない人を国の王様にすることはできない」と言いました。するとお母さんは「どうしてそうしたら嘘をついたんですか。生まれた時願い事があったら言ってくださいとどうして言ったんですか。嘘をついたらいけません。だから私の子を国の王様にしてほしい」と言ったんです。

 そうしたら王様はね、全国を治める王様にすることはできません、そうしたら北の方の王様にしますということで、北にある小さい島を、その人の国にして、その国の王にしてあげたんです。だからこの王子様は、目が見える人だったら、国の王様になる徳を持っていたんです。でも upadhivipatti という、ここでは目が見えないことになりましたから、小さい島の王様になりました。だからそれと同じですよということですね。

kālavipatti の詳しい説明


 kālavipatti もさっきも説明したんですけど、kālavipatti というのは良い時間じゃなくて悪い期間に生まれたらその時は誰にも、たとえは飢饉の時に生まれたら、その飢饉に遭います、ということです。たくさん善行為を行っていた人でも、その kālavipatti の時に生まれたら、善行為の小さい結果でも受けられないということです。簡単に言うと、kālavipatti というのは、悪いところに生まれると大変なことになってみんな同じように苦しいことになります、ということですね。

 悪い時に、悪い期間 kālavipatti に生まれたら善行為だけしてた人にも悪い結果しか受けられない、善行為をずーっと行ってた人でも、善行為の結果をもらうことができない、だから kamma というのはとても理解しにくいことです。だから kamma が良かったですからただ人生は良くなるということはないんです。

 これもたとえ話で言うとわかりやすいです。

マハーソーナ長老の話


 スリランカにワッタガーミニーという王様がいました。紀元前一世紀頃ですね。その王様の時代にスリランカで12年間飢饉がありました。12年間雨が降らなくて、飲み水もなくて、川もすべて乾いてしまって、田んぼもすべて干上がってしまいました。とても大変な飢饉でした。

 その時にまたインドからティッサという名前のバラモンの人も家来と一緒に来てスリランカの王様と戦争を始めたんです。飢饉もあって戦争もあって人々はたいへん、とても苦労していたんです。

 その時チッタラパッバタというお寺に1万2千人の阿羅漢たちが住んでいたんです。ティッサマハーラーマというスリランカの南側にあるもう一つのお寺にも12年間阿羅漢たちが住んでいました。その阿羅漢たちにも食べ物とかとても大変でした。いちおうお寺には昔、今でも同じでスリランカのお寺には田んぼもお布施してあるんです。お坊さんは田んぼの仕事はしないんですけど、檀家さんが田んぼを耕してお米を寺に差し上げる。そのお米が寺に残っていたんです。

 でもそれもネズミたちが入ってすべて食べてしまいました。だからお米も終わった。そのお坊さんたちは、チッタラパッバタというお寺にお米があるんじゃないかなと思って出かけました。同じように、チッタラパッバタというお寺にあるお米も、ネズミが食べてしまった。それでここのお坊さんたちもそうしたらティッサマハーラーマ寺院にお米があるんじゃないかなと思って、そのお寺に行こうと思って出かけました。

 途中の森の中でそのお坊さんたち、2万4千人のお坊さんたちが集まりました。話してみると、両方のお寺ではお米がなくなっているということが分かりました。そうしたら、ま、どこに行ってもお米がない、食べ物もない、だから私たちには生きていられない、だからこの森の中で、命あるまで住みましょうということで、冥想しながらいました。まあみんな悟ってた人ですから、座ったままで、冥想して禅定に入っていたんです。

 それでまあ食べ物もなくて飲み物もなくて、そこで死んで、骨だけが残ったんです。火葬する人も葬式する人も誰もいませんから。飢饉は12年間ありましたから、その後12年間の飢饉が終わってそこに来た人々は阿羅漢たちの骨ということがわかって、それをすべて一つの所にあつめて佛塔を作って礼拝しました、ということがあります。

 さてそのお坊さんの中にマハーソーナというお坊さんがいました。三蔵経の saṃyuttanikāya すべてを暗記していたお坊さんです。その頃は暗記で覚えたんですね。本はありませんでした。経典の本は一切ない。そのお坊さんたちの中で、saṃyuttanikāya すべてを暗記していたお坊さんは三人いました。チューワシーラ長老、イシダッタ長老とマハーソーナ長老というその三人の長老たちがほかのお坊さんたちを集めて、この飢饉の時に佛法がなくなるかもしれない、なんかやることはないでしょうかと話し合って、帝釈天に言ってなんとかしてもらいましょうということで大阿羅漢四人を呼んで、その大阿羅漢たちにトゥシタ天界に行って帝釈天に会ってこの話をしてきてください、ということになりました。

 それでトゥシタ天界に行って話したら、帝釈天もこの飢饉の時には私にもやれることはなにもありません、私の力も足りないです、だから他の国に行ってください、船を作って行ってください。海の中ではなにも事故が起こらないように守ってあげます、ということで、その阿羅漢たちは帰ってきて、皆にその話をしました。

 みんなと一緒に北の方に行って、北の方はインドに近いんですから、北の方に行って船を作って、お坊さんたちがその船に乗ります。その時にマハーソーナ長老にほかのお坊さんたちが声をかけて、あなたは将来この佛法を守りますから、あなたはインドに行ってください、私たちはスリランカを離れません、と言いました。

 その saṃyuttanikāya という経典をすべて暗記している三人のうち二人がスリランカに留まると言ったら、では私もあなたたちと一緒に留まりますということで、マハーソーナ長老もスリランカに残りました。ほかのお坊さんたちはインドに行きました。この三人はとても苦労しながら、スリランカであちこち木の葉っぱを食べながら生活していました。

 しばらくしたある日、マハーソーナ長老はひとりで大菩提樹に礼拝したいと思って、アヌラーダプラという大菩提樹がある町に行きました。途中、ある樹にいる神様が人間の形になって降りてきて、その時お米と黒砂糖を持ってきました。マハーソーナ長老といろいろ話して、どこに行きますかと聞いたらアヌラーダプラの聖大菩提樹に礼拝するために歩いていますと言ったら、私もそちらに行きますということで、二人で行くことになりました。樹神は夕方になると水に黒砂糖を混ぜた飲み物を作ってあげました。それもいただいて、もうちょっと行って夜になると、木の下で寝ました。

 朝になると樹神はお米でお粥を作って差し上げました。それを食べて元気になったマハーソーナ長老と二人で、アヌラーダプラの聖大菩提樹のある方向に行くと、遠いところで煙が見えたんです。

 その煙を見ると、神様は「私はここで止まります。あの煙が上がっているところには人々が住んでるみたいですから、お坊様ひとりで行ってください」と言って、自分の住んでいる樹に戻りました。マハーソーナ長老はその村に行きましたが、その村の人々も食べ物がなくて、葉っぱを食べながら生きていました。

 12年間とても苦労しながら生きていたそのマハーソーナ長老の所に、インドに行ったお坊さんたちが帰ってきました。帰ってきて、マハーソーナ長老と一緒に、アヌラーダプラのひとつのお寺に泊まったんです。その日の夜、神々が、マハーソーナ長老と阿羅漢たちが600人来ているということがわかったので、村の人々に言います。次の日、マハーソーナというお坊様が托鉢に来ますから、そのお坊様に衣と食べ物を差し上げてください、と。

 町には、歩いていく人たちが時々休むことができるようにと、いろんなところにホールが作ってあるんですね。今でもスリランカにはあちこちにあります。昔にも人々が歩いていくときに泊まることができるようにと、そういうホールが作ってあったんです。その時にもお坊さんたちはそういうホールに泊まっていたんです。

 次の日、お坊さん、600人の阿羅漢たちが托鉢に出たら、その町の一番偉い人が来て、マハーソーナ長老はどこにいますか、と聞いたんです。マハーソーナ長老は一番年下のお坊さんですから、一番後ろに座っていたんです。

 檀家さんたちも村の偉い人も、マハーソーナ長老の所に行って鉢を下さいと手を出したんですけど、マハーソーナ長老は、他の自分より年上のお坊さんがいますからそのお坊さんたちにお布施してくださいと言ったんです。でもその人たちは、マハーソーナ長老の鉢しかほしいと言わないんです。

 それで、前にいる大阿羅漢は、マハーソーナ長老のことをわかってるんです。マハーソーナ長老は三蔵経の半分くらい暗記しているとても智慧がある人で、それから前世でたくさん功徳を積んできたお坊さんですから、どこに行っても困らない、食べ物、着るものなんでももらいます。だから功徳を持っている人たちに神々も助けてあげることがあります、だからあなたの鉢をあげてください、と言ったんです。

 それで鉢をあげると、その人たちは衣と食べ物を差し上げました。村の人々はみんな、衣と鉢をマハーソーナ長老だけにあげたんです。マハーソーナ長老もそれをすべていただいて、ほかの600人の阿羅漢たちにまた差し上げたんです。差し上げて、最後にこのたくさんのお布施と衣をどうしていただいたんですか、ということを話したんですね。

 前世でたくさん功徳を積んできましたから、今世たくさんこういう食べ物、着る物をもらうことができました、と。私は前世たくさん功徳を積んでいたんですけど、でもkālavipatti、この飢饉の時には葉っぱしか食べるものがなかったんです。だからそれは私の善行為の結果ではなくて、悪行為の結果でもなくて、kālavipatti という、飢饉の時には葉っぱしか食べるものがなかったんです、葉っぱを食べることになりましたと、説明しました。

 まあこの話を見ると、大阿羅漢でも、前世にたくさん功徳を積んでいた人でも、kālavipatti とかそういう vipatti になった時には、功徳をもらうことができないということですね。

 だからそういうことで、kamma について、お釈迦さまはちゃんと理解してわかっていたんです。人々は善いことをするとその結果はどうやってもらうか、悪いことをするとその結果はどうやってもらいますかということは、お釈迦さまはちゃんとわかっていたんですね。だからお釈迦さまは kamma についてすべて理解している人、そういう智慧がありました。