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2017-10-01

イスラム教について


 イスラム教では、キリストは預言者の一人です。
 
 イスラムという言葉の意味は、イスラム教徒に聞くと「平和」という意味と教えてくれます。でも本当の意味はそうではありません。アラビア語でイスラムというのは「神に全てを任せる」という意味です。だから神しかいない、全てアッラーという神だけですよ、という意味なんです。
 
 イスラム教を広めるためにやっている色んな方法があります。その中で重要な言葉がジハード、アル・カイダなどです。アル・カイダと聞いた途端に「テロ」ということがわかりますね。そんな風に、平和を教えている。戦争しているのは平和を広めるためなんです。

2017-09-26

施本について


 8月と9月の佛道実践会では、十二縁起を教えていただきました。
 
 8月のものが終わった時点で「9月のものを書き起こす予定」と書きましたが、実は9月の動画収録は度重なる不調により、ブログでの公開を断念することとなりました。
 
 他の動画は大丈夫だったのになぜか十二縁起のものだけは途中が抜けたり音声が入らなかったりおかしくなったり。
 
 このままでは次にやる時にも同じことが起こるのではないかと正直非常にやる気を失っていたところ、スダンマ長老より「では十二縁起は施本にしましょう」とおっしゃっていただきました。
 
 しかしながら、8月の十二縁起について動画をご覧になればおわかりになると思いますが、十二縁起全部(滅も)を文章にするとなると、相当な量になると予想されます。
 
 そこで、良い機会ですので、日本ではあまり馴染みのない、施本について紹介いたします。

2017-08-29

ニャーナサーラ長老の説法


 第七回雨安居中過去七佛供養法要と特別説法の動画で、ニャーナサーラ長老がシンハラ語で説法をなさっています。


 ニャーナサーラ長老はスリランカでは大変有名なお坊様で、イスラム教の問題に関して政治的な活動もなさっています。YouTubeで検索するといくつも動画が出てきますので、そのうちの二つを紹介いたします。
 
佛随念


ジャヤ・パリッタ

 さてその時の説法について、法要が終わった後にスダンマ長老に伺いました。
  

ニャーナサーラ長老の説法の大意


 イスラム教徒は、日に五回礼拝し、女性は布をかぶります。女性の仕事は子供を生むことだとされ、生涯に何人もの子供を産みます。妻帯は四人までできます。
 
 金曜日には必ずモスクに行きます。商売をやっている人は店を閉めて、モスクに行きます。商売より先に、まず信仰なのです。
 
 それに比べあなたたち佛教徒はどうでしょうか。五戒も守らず、今の法要でも受戒の時にはうろうろ歩いたり、大事な法要の時でもお金の方が大事だとばかり「仕事があるから行けません」と。
 
 また、在日スリランカ人の中でもそれぞれ小さなグループを作り、その人たちだけで集まってそれぞれで寺に行ったり。こういうことが、佛教を壊していくのです。
 
 世界に、二千年以上同じ一つの宗教を持ち続けた国は、スリランカを置いて他にありません。スリランカ文化はテーラワーダ佛教文化です。その誇りを持って下さい。
 
 毎週寺に来いとは言いません、せめて月に一度は、寺に来てお釈迦さまの教えを思い起こす時間を持って下さい。お坊様の話を聞いて下さい。

2017-08-02

過去七佛供養法要とは


 雨安居中、富士スガタ精舎では毎週日曜日に過去七佛供養法要を行っています。

 日本ではあまり馴染みの無い、過去七佛供養法要とは一体どういうものなのでしょうか。先日の動画の中でスダンマ長老が日本語で説明して下さっています。
 
 

スダンマ長老の説明(動画からの引用)


 過去七佛供養法要というのは、特別な法要です。
 
 日本の佛教でも過去七佛偈、七佛通誡偈といい、テーラワーダではovādapātimokkha(オーワーダパーティモッカ)といいます。
 

 sabbapāpassa(サッバパーパッサ) akaraṇaṃ(アカラナン)
 一切の悪いことをしない
 
 kusalassa(クサラッサ) upasampadā(ウパサンパダー)
 善いことをすること
 
 sacitta(サチッタ) pariyodapanaṃ(パリヨーダパナン)
 心を清らかにすること
 
 etaṃ(エータン) buddhāna(ブッダーナ) sāsanaṃ.(サーサナン)
 これらは過去七佛の教えである
 
 と、日本の仏教でも教えています。
 
 過去七佛というのは、特別な正自覚者たちです。なぜかというと、この100劫の間に生まれた七人の正自覚者から教えを聴いて預流果、一来果、不還果になった神々が、今も天界に住んでいて、その神々がお釈迦さまの所に来て礼拝し、
 
 「私たちは前世ウィパッシ正自覚者、シキ正自覚者、ウェッサブ正自覚者、カクサンダ正自覚者、コーナーガマナ正自覚者、カッサパ正自覚者、それぞれの正自覚者に出会い、教えを聴き、その正自覚者の佛舎利塔に礼拝し、菩提樹に礼拝して、その功徳によって天界に生まれ変わりました」
 
 と言ったという話が色々な経典の中に出てくるからです。
 
 有名なāṭānāṭiya(アーターナーティヤ) sutta(スッタ)(阿吒曩胝経)(あたくのうていきょう)や、mahāpadāna(マハーパダーナ) sutta(スッタ) (大本経、(だいほんきょう)大譬喩経)(だいひゆきょう)というお釈迦さまの生涯について書かれている経典の中にも過去七佛のことが書かれています。
 
 お釈迦さまが生きていた時代から
 
 namo(ナモー) sattannaṃ(サッタンナン) sammā(サンマー) sambuddhānanti.(サンブッダーナンティ)
 過去七佛に礼拝いたします
 
 とこの言葉が経典の中にありますので、この過去七佛に礼拝するということ、供養するということはこの上ない高い徳が生まれる善行為として教えられています。即ち、この善行為を行うことによって、今世の中で起こる色々な悩み苦しみから離れて、幸福で安楽で過ごすことができるということです。
 
 スリランカ人も日本人の方々も、一緒にこの雨安居中、富士スガタ精舎で毎週日曜日に過去七佛供養法要を行っています。皆様も是非この法要に参加して、過去七佛のご加護によって、過去七佛から教えを聴いて預流果、一来果、不還果になった神々のご加護によって、健康で幸福で暮らすことが出来ますように、全ての悩み苦しみが無くなりますように、良い願い事がかなえられますように、幸福で暮らせますようにという善い心を持って、誓願の心を持って、お供え法要を行いますので、皆様も心を込めて、参加して下さい。
 
(引用終わり)
 



 これを読んで、皆様はこう思うかも知れません。「これでは宗教みたいじゃないか。」
 
 その通りです。五力(信saddhā、(サッダー)精進viriya、(ウィリヤ)sati、(サティ)samādhi、(サマーディ)pañña(パンニャ))のうちの信というのは、結局信仰のことです。なにを信じるのかというと、お釈迦さまが菩提樹の下で最終的な解脱に至った、と信じることです。
 
 二つ問題があります。
 
 まず一つは、どうやってお釈迦さまが最終的な解脱に至り阿羅漢果を得られたと我々が知ることができるのか、ということです。我々が阿羅漢になれば「ああなるほど、お釈迦さまも同じ立場になられたのだ」とわかるかも知れませんが、それまでははっきり言って知る由はありません。そういう立場になった人がいるのだと信じることによって、その境地を目指す気持ちが生まれるのです。
 
 もう一つは、「テーラワーダのお坊様は、テーラワーダは宗教ではない。信仰は一切必要ない、と言っているではないか」という問題です。
 
 実は、これは方便です。日本で(というか世界でもそうだと思いますが)「信仰」というと、なにか偉大なものの力におすがりして助けてもらう、善悪を決める決定権はその偉大なものにある、ということになってしまうからです。「それとは違うんだよ」ということをまずわかってほしいのです。
 
 テーラワーダは自力の教えです。善因善果、悪因悪果、善いことをすれば自分に良い結果が現れる、悪いことをすれば悪い結果が自分に現れる。このことを信じないことも無知といいます。これもまずは信じないことにははっきり言って佛教の実践のしようがありません。
 
 しかし、であるならば、別に信仰は必要ないような気がしてきます。ただ実践すればいいのではないか、と。
 
 その通りです。ただ実践すればいいのです。しかしその中に「信」という項目が入っているのです。これはどういうことでしょうか。
 
 五力をバランス良く育てていくことによって修行は進んでいきます。どれかが強すぎても弱すぎても、ちょっと問題が起こります(因みに念だけはどれだけ強くても良いので、他のバランスに気を付けながらお坊様方はそこを中心に瞑想指導なさっています)。最近は日本語でもだいぶテーラワーダの教えに触れる機会が増えてきましたので皆さんも慧が増えてきていることと思います。そうなると、今度は信を強くしないと、バランスが悪くなってしまいます。簡単に言うと、何でも疑うだけで終わってしまう。逆に信が強すぎると、今度は何でも信じてしまう。ここでも中道は重要です。
 
 

俗世間での正見


 まだ「信仰」ということに納得できないかも知れません。もう少し例を挙げてみましょう。
 
 世間法loka(ローカ) dhamma(ダンマ)の正見sammādiṭṭhi(サンマーディッティ)の中で、atthi(アッティ) dinnaṃ、(ディンナン)atthi(アッティ) yiṭṭhaṃ、(イッタン)atthi(アッティ) hutaṃ(フタン)というのがあります。
 
 atthi(アッティ) dinnaṃ(ディンナン)
 お布施の功徳がある
 
 atthi(アッティ) yiṭṭhaṃ(イッタン)
 尊敬すべき人に尊敬すると功徳がある
 
 atthi(アッティ) hutaṃ(フタン)
 供養すると功徳がある
 
 ということです。
 

お布施の功徳がある


 佛教徒はお布施をすることによって布施波羅蜜を積みます。
 
 お布施というのは生きている生命に与えること、供養というのは、テーラワーダでは正自覚者やそれを現すもの、菩提樹などにものをお供えすることです。
 

尊敬すべき人に尊敬すると功徳がある


 他の宗教の人に「佛像に礼拝するのはなんでですか? 偶像崇拝ではないのですか?」と質問されたことがありまして、その時にこう答えました。
 
 「そもそも佛像自体誰が作ったかわからないし、佛像を崇拝しているわけではありません。佛像を見てお釈迦さまの徳を念じ、正しい教えを我々に説き僧伽(サンガ)を作ることによって今に伝えて下さったお釈迦さまに尊敬の心を持って礼拝しているのです」と。その人は納得してくれました。
 
 尊敬すべき人とは、こうして正しい教えを説いて下さったお釈迦さま、そしてそれを伝える僧伽に尊敬の気持ちを持ち、失礼なことをしない、ということです。お坊様より高い場所に座らない、失礼な言動をしない。預流果になると邪見は消えますから、こういう行動をしている人を見ると「ああ、預流果ではないんだな」とすぐにわかります。お坊様の言うことを聞かないということは、お釈迦さまの言うことを聞かない、ということです。それだけの覚悟を持って、テーラワーダのお坊様方は修行なさっています。
 

供養すると功徳がある


 私が以前わからなかったのは、ここです。生きてもいない人に、しかも菩提樹に至っては動物ですらありません。なのに佛像(お釈迦さま)、菩提樹になぜお食事、ロウソク、線香、お飲み物などをお供えしなければならないのか。
 
 以前スダンマ長老に質問した時には方便で答えて下さり、その時はその時で「なるほど」と思ったのですが、しばらくしてまた疑問に思いました。そしてそれが今回の過去七佛供養法要で、実感として理解できたような気がします。
 
 今回の法要は、準備に一時間くらいかかっています。お供え物を用意するためにです。しかしそれを皆、お飲み物については息、唾が入らないようにマスクをし、お供え物が汚れないようにと手袋をしてまで静かに準備しています。正自覚者に対して尊敬の気持ちを持たない人たちが、こんなことをするでしょうか。
 
 法要中も、お坊様が、参加した人たちがパーリ語、シンハラ語、日本語で偈を唱えます。怒りも欲も出てきません。静かな気持ちで過去七佛に対し尊敬の気持ちが増してきます。
 
 また、これは私の体験なのでいい加減なものなのですが、法要後、今週に入ってから、今まで思いつきもしなかったことが次々とひらめくようになりました。理由はまったくわからなかったのですが、どうも思い当たる節は、この法要しかないような気がします。
 

方便


 最後に、いい機会ですので、方便について少し。

 方便は、嘘ではありません。musāvāda(ムサーワーダ)ではない、ということです。

 実はテーラワーダのお坊様は、よく方便を使います。私も慣れていない頃には、いや、慣れた今でも「え?!」と思わされる発言によく出会います。しかし、後で(そうとう後になって、という場合も)「ああ言っていたのはこういう意味だったのか」とか「ああいう言い方をしたのはこういう意味があったからなのか」とわかります。ですから、「お坊様の言うことを聞く」と書きましたが、それは絶対服従、という意味でありません。
 
 とにかくお坊様方は我々在家に智慧をつけてほしいと考え、あの手この手でいろんな攻撃を繰り出してきます。白状しますと、私も「ムカッ!」ときたのは二度や三度ではありません。
 
 お坊様は言います。「瞑想するだけで預流果に至れる」と。
 
 方便です。すみませんが、瞑想するだけでは預流果には至れません。それは経典にも書いてあることです。大念処経で「ただ一つの道」と教えている相手は「比丘たちよ」です。大変修行の進んだお坊様方で、在家にそう教えているわけではありません。
 
 しかしなぜ瞑想だけで、と言うのかというと、正しい道に入るには、入り口はどこからでもいいからです。お坊様に礼拝しろだとか佛像にお供えしろだとか法話に興味をもてだとか、最初からそんなことを言われたら嫌になってしまいます。まずは瞑想だけでいいからしっかりやれ、という親心です。
 
 いくらスマナサーラ長老とはいえ、発言が100%絶対だ、と思うと間違った道へ進んでしまいます。お坊様の発言は一体どういう意図があったのかと、智慧を持って考えることが大切です。

2017-07-15

お布施について


 日本で「お布施」というと、だいたいお金の徴収のことを指します。しかしこれでは、十波羅蜜のうちの一つ「布施波羅蜜」を満たすことはできません。テーラワーダで言う悟りに至るには十波羅蜜を完成させることが条件ですから、涅槃に至ることができない、ということになります。これはどういうことでしょうか。
 
 
 お布施というのは立派な修行です。どういう修行かというと、他の生命に自分が持っているもの(物品とは限りません)を与え、善行為をしたと喜ぶ修行です。嫌な気分になったのなら、それは善行為になっていません。布施波羅蜜を積んでいません。
 
 
 在家の生活は出家に比べて欲の多い生活をしています。ですから自分、「我」に対する執着が多い在家が「自分が目立ちたい」「自分が上に立ちたい」と思うのは自然なことです。その感情と闘うことが欲を減らす修行であり、これは布施行にも当てはまります。例えば「私にはこれだけ財産がある」と見せるために見栄でお布施をすると、それは残念ながら善行為にはなりません。お布施をする前、お布施をする時、お布施をした後、自分の心がどうなっているのか、喜びに満たされているのか見ながら、少しでも嫌な気分になっていたのならよく注意して過ごすことが大事です。ですから、誰かがお布施しているのを見たら「ああ、善いことをしているなあ」と共に喜ぶのであって、決してお布施した人が嫌な気分になるようなことをしてはなりません。皆で同じ金額をお布施しようといって誰かがその分をお布施しなかったとしましょう、その時に「あいつはお布施しなかった」と思ったらお布施しなかった人も嫌な気分になりますし、なにより他のお布施した人も善行為したことにはなりません。徹頭徹尾お布施をして良い気分になるよう、周りも気を遣ってあげることこそが、皆で精舎という共同体を作って涅槃に至る修行をする環境を作り上げている、なによりもの重要な意味となるのです。
 
 
 実は、富士スガタ精舎は運営的に大変厳しい状況になっています。スダンマ長老から「今年の雨安居が終わったら精舎をたたんでスリランカに帰るか……」という言葉まで出ています。テーラワーダのお布施というのは決して僧伽(サンガ)にお布施することだけを指すわけではありませんが、やはりお釈迦様の教えを伝える僧伽にお布施をすると一番徳が高いとは言います。富士スガタ精舎は、現在の日本ではまだ数が少ない、僧伽に直接お布施ができる場所です。もし皆さんもテーラワーダの教えが日本に根付いてほしいとお考えであれば、この機会に僧伽に対して布施波羅蜜を積んでいただきたいと思っております。
 
 
 よろしくお願いいたします。

2017-07-03

富士スガタ精舎の魅力


 富士スガタ精舎ご住職、スダンマ長老より、新たにこのブログに記事を投稿することを許可いただきました、さくらぎ瀞と申します。在家の観点からスガタ精舎、テーラワーダ佛教の情報を日本語で発信いたしますので、よろしくお願いいたします。


 スマナサーラ大長老のご活躍により、日本では小乗としか呼ばれていなかった教えが、今では上座部仏教、初期佛教、原始仏教、そしてテーラワーダ佛教という名前でこの国にも浸透し始めてまいりました。


 それとともに、「マインドフルネス」のブームで、テレビ等で瞑想が取り上げられることも多くなり、多くのテーラワーダのお坊様、大乗佛教のお坊様が瞑想指導をなさり、それぞれのところで活況を呈していると聞いております。

 
 やはりさすがはマインドフルネスの瞑想、どれもこれも(南伝)三蔵に基づいたものかどうかは私にはわからないのですが、瞑想することによって悩みが軽くなった、明るく前向きに生きることができるようになった等という話がネットを検索するだけでも枚挙にいとまがないことは、これをお読みの方ならよくご存知のことと思います。

 
 それはそれで大変素晴らしいことだと思います。もしその上でテーラワーダにより深く興味を持つことがあるのなら、それは更に素晴らしいことです。

 
 しかしそこで、では日本に於いてマインドフル瞑想のその先、テーラワーダで言う「涅槃」を目指す瞑想とはどういうものかと詳しく教えて下さるお坊様がいらっしゃるのかと考えると、現実はなかなか難しいと言わざるを得ません。


 これは決して、日本で瞑想を教えていらっしゃるテーラワーダのお坊様が深く教義を知らない、ということではありません。私が実際にお話を聞いたりネットや書籍等でお坊様がおっしゃることを拝見しますと、私のわかる限りでもやはりよく教義をご存知で、しかし現状日本の考え方や常識自体がテーラワーダの考え方とまるで違うところも多々あるようで、そこを方便を使って説法していらっしゃるという印象です。例えば食厭想や不浄随念などは、テーラワーダに興味がある私でも正直「ちょっと……」と怯んでしまいます。これを大々的に発表しようものなら、テーラワーダについての知識がない人たちに「佛教とはそういうものなのか」と勘違いされてしまいます。

 
 そこで、なぜそんな瞑想が必要なのか、それが涅槃とどう関係があるのか等、勿論既存の本にもヒントはありますし、自分一人で瞑想をすることによって答えを見つけ出す人ももしかしたらいるのかも知れませんが、そこはやはりテーラワーダの専門家に話を聞くのが一番です。より細かく、個人個人のレベルに合わせて道を導いて下さる、それがスダンマ長老でいらっしゃいます。

 
 まず、精舎が皆に開かれています。実際にはスダンマ長老は法要や在日のスリランカの方のお宅でのお食事のお布施等でいらっしゃらないことも多いのですが、大抵は他のお坊様がいらっしゃることでしょう(まだ日本語をしゃべることのできるスリランカのお坊様は決して多くなく、英語、または英語のしゃべれないお坊様だとどうしてもシンハラ語になりますが)。スダンマ長老も他のお坊様も、訊く人が真剣であれば、真摯に質問に答えてくれます。逆に変な意図があると、結構厳しいことは覚悟しておいた方が良いかも知れません。

 
 また、テーラワーダというと瞑想一色という印象を持っている方もいらっしゃるかも知れませんが、スガタ精舎はそうではありません。お坊様がいらっしゃる時には在日のスリランカの方がお食事のお布施によくいらっしゃいます。そこで説法もし、祝福もし、我々在家もそのお食事をいただきます。今はまだ敷地が大きい寺ではありませんので、そういった中で瞑想し続けるのは無理があります。でも、どうしても瞑想だけして過ごしたいという方には、寺の裏がちょうど竹藪になっていますので、まさにその林の中で瞑想三昧に過ごすこともできるのは他の日本のテーラワーダのお寺には無い魅力かも知れません。
 

 佛道実践会という合宿も行っています。しかし、これも他の瞑想実践会とは色が違うかも知れません。参加された方はご存知だと思いますが、まず無言行に徹しません。勿論瞑想の時間は無言行です。が、他の時間は勉強会というか質問会のようになります。こここそが、他にはないこの精舎の魅力です。例えば先ほどの食厭想や不浄随念などはどうしても大っぴらに話すことができない話題です。そういうものこそ、しかも他の修行者たちもいる前で質問しますと、みんなの役に立つというものです。
 

 私が思いますに、瞑想は個人個人で家でやれば良いと思うのです。でもなかなかできないので、特別な時間を作って自主瞑想会もしますし、お坊様がいる前で瞑想実践をすることも素晴らしいことです。でも、この精舎でも同じことをする必要はないのではないでしょうか。スダンマ長老の瞑想指導はアナパナですが、アナパナで指導なさるお坊様も他にいらっしゃいます。せっかく日本語でテーラワーダを語っていただけるスダンマ長老がいらっしゃるのですから、他ではなかなか突っ込むことのできない、深い教義の世界に浸ることができる、それこそが富士スガタ精舎の魅力です。