2017-08-29

ニャーナサーラ長老の説法


 第七回雨安居中過去七佛供養法要と特別説法の動画で、ニャーナサーラ長老がシンハラ語で説法をなさっています。


 ニャーナサーラ長老はスリランカでは大変有名なお坊様で、イスラム教の問題に関して政治的な活動もなさっています。YouTubeで検索するといくつも動画が出てきますので、そのうちの二つを紹介いたします。
 
佛随念


ジャヤ・パリッタ

 さてその時の説法について、法要が終わった後にスダンマ長老に伺いました。
  

ニャーナサーラ長老の説法の大意


 イスラム教徒は、日に五回礼拝し、女性は布をかぶります。女性の仕事は子供を生むことだとされ、生涯に何人もの子供を産みます。妻帯は四人までできます。
 
 金曜日には必ずモスクに行きます。商売をやっている人は店を閉めて、モスクに行きます。商売より先に、まず信仰なのです。
 
 それに比べあなたたち佛教徒はどうでしょうか。五戒も守らず、今の法要でも受戒の時にはうろうろ歩いたり、大事な法要の時でもお金の方が大事だとばかり「仕事があるから行けません」と。
 
 また、在日スリランカ人の中でもそれぞれ小さなグループを作り、その人たちだけで集まってそれぞれで寺に行ったり。こういうことが、佛教を壊していくのです。
 
 世界に、二千年以上同じ一つの宗教を持ち続けた国は、スリランカを置いて他にありません。スリランカ文化はテーラワーダ佛教文化です。その誇りを持って下さい。
 
 毎週寺に来いとは言いません、せめて月に一度は、寺に来てお釈迦さまの教えを思い起こす時間を持って下さい。お坊様の話を聞いて下さい。

スダンマ長老が日本の現状を踏まえ、教えて下さいました
 
 ニャーナサーラ長老はその過激な発言もあって、実はスリランカの佛教徒の中でも「嫌い」という人が多いお坊様です。しかしそれは、どこの国も同じだと思いますが、ニュースでその(イスラム教に対する)過激な発言の部分のみクローズアップして伝えられるのでそうなのであって、話を全部聞いたらそんなことはまるでありません。私(スダンマ長老)の身近にもそういう人がいましたが、長老は以前にもスガタ精舎に来たことがあるので「いやそういうことばかりではないんだ」と話したら、今ではきちんと理解してもらえました。
 
 イスラム教が在家者にも戒律を遵守させるのは、洗脳です。毎日そういうことをやっているとそれが当たり前になり、当然信仰心も高くなってきます。そうなると、「本当に正しいこととは何なのか」などと考えることはできなくなり、「これのみが正しい」となるのは自然な流れです。
 
 これは邪見です。日本でもよく見られます。「瞑想のみやっていれば悟れる」と。お坊様の話を聞かなければ悟れません。なぜかというと、正見が得られないからです。正見は大変難しい。あまりに難しいので、「瞑想を結構やってみたけどもなぜかうまくいかない。なにか良い方法がないものだろうか」と探して、そこにちょっと変わった瞑想方法や変わった話をする人が現れると「これだ!」といって飛びついてしまう。
 
 実はこれはお釈迦さまの時代にもあったことです。デーワダッタ長老が五つの戒律をお釈迦さまに提案しました。肉魚を食べない、一日一食のみ、森に行って修行しなければならない、捨てた布で作った衣しか着ない、牛の尿のみ薬として認める。お釈迦さまはこれを認めませんでしたので、これを聞いた比丘五百人が「こちらの方が修行として正しいのではないか」と、デーワダッタ長老について行ってしまいました。
 
 決してこの比丘五百人に智慧がなかったわけではありません。その証拠に、その後サーリプッタ尊者とモッガッラーナ尊者が行って説法をしたら、皆悟っています。しかし、こういう話を聞いてしまうと、こちらの方がいかにも修行している感じがしますし、在家信者にも受けが良いことは確かです。
 
 日本ではイスラム教徒が、「佛教もイスラム教も、平和の教えです。イスラムの教えはお釈迦さまの教えです」と言って勧誘している例があります。そして実際に、イスラム教徒の女性が布をかぶっているのを見て「ああ、佛教の戒律を守っている、素晴らしい」と言っている女性がいました。とんでもない話です。
 
 スリランカでは、イスラムの断食月の終わりに、宗教の交流がどうとかいかにもきれいな名前を付けて、(佛教の)寺でお祝いをします。しかし、モスクには異教徒は入れない。モスクでも佛教のお坊様が終夜読経をやるとかなら良いんですが、こういうのは「交流」とは言わない。
 
 私が子供の頃にはまだ学校自体が宗教で別れていなかったので、授業に宗教の時間というのがあって、その時にヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の人は別の教室でそれぞれの授業を受けました。ウェーサーカの時には佛教徒は学校で八斎戒を守り、その宗教の人たちが佛教徒の世話をしました。これがお互いの宗教を重んじる、ということです。
 
 実はこういう話は今のスリランカではするのが難しい。イスラム教は石油産出国からのお金がありますから、そのお金で政府も傾いているのです。大臣たちは、イスラム教の式典の時にはきちんとイスラム教に則った服装で礼拝しているのに、佛教の式典ではお坊様と同じ椅子に座り、えらそうな顔をしています。スリランカの憲法には「スリランカは佛教国である」と明記されているにもかかわらず。
 
 しかしこう言いながら、つい二十年ほど前までは、ごく一部の道を求める在家を除いて、スリランカでもテーラワーダ佛教は単なる宗教として信じられていただけでした。だから在家にはダンマパダの偈をもとに説法するだけでした。他の経典を説いたりはしませんでした。
 
 今の日本は面白い。涅槃への道を模索している人たちも現れ始めています。しかしそこで、「瞑想だけが唯一の道」となるのは、大変な邪見となってしまいます。お坊様の話を聞かないと正見は得られないのに、「話なんか聞かなくても良い。瞑想をやりましょう」と、まるで私の方が邪見であるかのような言いぐさ。シロアリは家の木材の中に生まれ、喰われていることはだいぶ後にならないとわわからない。佛教もそうです。内部から壊れていきます。気付いた時には、もう手遅れ。
 
 今のスリランカでも、「私は正自覚者だ」「私は阿羅漢だ」と言って人気を得ているお坊様がいます。スガタ精舎にもそういう所のお坊様が来たことがあります。日本でも将来必ずそういう問題は起こります。その時にもきちんと判断できるように、お坊様の話はきちんと聞いておきましょう。
 

さくらぎの意見


 スダンマ長老はテーラワーダの戒律の専門家で、古くからのしきたりに詳しいお坊様です。その為でしょうか、日本で活躍される他のお坊様がテーラワーダの真意を本当に伝えているのか、とやや不満に思われているようです。
 
 私からすると方便で仕方なくそうしているのではないか、いきなりガチガチのテーラワーダ教義を日本人に伝えたら、それこそ胡散臭く感じてしまうからまずはそこからではないのかと思うのです。実際初めて私がスガタ精舎に訪れた頃スダンマ長老からお聞きした話は、正直すぐには受け入れられるものではありませんでした。
 
 いつのカティナ衣法要の時でしたか、スリランカの人が「法要の時カティナを縫っているのは初めて見た」と言っていました。果たしてその人がたまたま見たことがないのか、それともスリランカではあまりやられていないことなのかはわかりませんが、この時私はこう思いました。「もしかしたらスダンマ長老は、日本人がなにも知らないことを良いことに、きちんとしたテーラワーダの伝統を復活させようとしているのではないか」と。
 
 新しい画を描くには、やはり白いキャンバスが一番です。日本ではテーラワーダは小乗佛教といって蔑まれてきましたから、その差別感はあるかも知れませんが、テーラワーダの知識はまだ皆無といって良い状態です。
 
 問題は、(日本の)大乗佛教の用語とテーラワーダの用語の混同です。大乗佛教にはきちんと伝統もありますから、そちらを間違いだとかどうとかいうのではありません。そちらの解釈を、テーラワーダに持ってこられては困る、ということです。「テーラワーダではこう言います」と。
 
 そういうことが日本語でスダンマ長老の口から語られ始めました。恐らく他の国でも、例えテーラワーダの国々でも、在家信者にはそんなに詳しく佛教が語られていることはないか、または大変少ないのではないかと思います。
 
 次回9月の佛道実践会では佛法の肝、十二縁起の法が説かれます。先の雨安居中の動画()を見ていただければお分かりになると思いますが、かなり突っ込んだ内容になると思われます。その時にはもう一度初めから説法して下さるということですので、是非ご参加下さい。
 
 9月の佛道実践会は
 
 9月16日(土)〜18日(月・祝)

です。初めて参加される方は、富士スガタ精舎 0544-66-8434 までお電話下さい。