2017-11-21

教え、「法」とは?


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)


他人が戒律を守っているかどうかは関係ない


 お釈迦さまが教えているのは、

 na paresaṃ vilomāni - na paresaṃ katākataṃ,
 attanova avekkheyya - katāni akatāni ca.

 他の人がやったこと、やらなかったことを探すのではなくて、自分が何をやったかやらなかったかということを見て下さい、ということです。だから他の人が戒律を守っているか守っていないか、関係ないんですね、私たちには。自分で戒律を守って、自分で正しい生活をすれば良いんです。
 
 戒律を守らない人であっても、その人に能力があって正しいことを教えてくれるんだったら、それを聴いて下さい。そうじゃないと勉強することが出来ません。
 

silvat samāgama


 スリランカでは300年前くらいに教えがなくなった、というより比丘がいなくなったんです。その時にはガニンナーンセーという、お坊さんみたいな格好をしている、でも結婚して子供もいて、お寺に住みながら、お寺には王様たちがお供えした田んぼとか色々ありましたので、そういうところで働いて生活していた人たちが沢山いました。
 
 そういう人たちのおかげで経典、伝統などが守られました。お寺、佛歯寺、佛歯や菩提樹など、そういうものはそういう人たちのおかげで守られてきました。
 
 Weliviṭa Saraṇaṅkara というお坊さん、お坊さんといってもその人も在家の人で、出家して、出家といっても十斎戒を受けて、勉強を始めたんです、独学で。
 
 自分で勉強するためにはパーリ語で勉強しなければいけないし、パーリ語を知っている人たちがいないような時期です。ある時牢屋に入っている人がパーリ語を知っているということがわかったので、その牢屋に行って、そこでパーリ語を教えてもらって自分一人で経典を読むようになりました。
 
 経典を勉強していくと、今までの自分のやり方は正しい生き方じゃないということがわかって、グループを作ったんです。それは silvat samāgama といいます。戒を守る会、グループ。同じように戒律を守りたい人たちが集まって、「私たちは経典に基づいて、戒律を守りながら生活しましょう」と、勉強しながら色々活動を始めました。
 
 そんなある時インドからバラモンの人が来て、王様と話がしたい、と。王様の周りには智者たちがいましたが、彼らは話が出来ません。当時智者たちはサンスクリット語で話していましたが、サンスクリット語がわかる、知っていると言っていた人たちも実は話せなかった。
 
 さてそこでサラナンカラさんが「私は話せますよ」と。自分でサンスクリット語を勉強していましたから。そしてそのバラモンと対話しました。
 
 王様は大層喜んで、近くにお寺を造ってあげて、そこに行って彼に「何か欲しいものはありますか」と訊いたら、彼は「具足戒を受けたお坊さんがいる国に行って具足戒を受けてきたいのです。それを援助して下さい」と。それで他の大臣たちと一緒に王様の命を受けてそのお坊さんたちがタイ、当時はシャム国に行きました。二回、三回行ったんですね、船が壊れたり行けなくなってまた戻ってきたり、三回目にやっとシャム国に着きました。
 
 行って具足戒を受けて、ウパーリという長老も他の長老たちを何人か連れてスリランカに戻ってきました。そしてスリランカの佛教が復興、そうやって今のスリランカの佛教が始まったんです。
 
−−沙弥の人がいた、ということですか?

 沙弥とも言えないんです。お坊さんの格好をしているんですけど、結婚して子供もいて、お葬式とかもやっているし亡くなった人たちのために法事もやってるんですけど。お寺に住んでるんですが、でも沙弥とは言えないんです。
 
 そのサラナンカラさんや他の方々は沙弥みたいな生活、正しい生活をするグループを作ったわけなんです。
 
−−三蔵の律からしたら沙弥とは言えない、ということですか?

 そうです。でもその結婚してお寺に住んでいた人たちも一応尊敬されるべき人として、戒律を守っていなくても、お寺を守っていた。経典を守っていた。だから伝統的な葬式とか法事とかそういうやり方を守ってきたんですね。佛歯寺の佛歯のお世話をしたり。それを守ったことだけで、その人たちは有り難い。だから今も、私たちは尊敬してるんです。その人たちのおかけでスリランカの佛教が守られたんです。戒律を守っていない、結婚している、子供もいる、そういう変な人たち、と低く見ることはしないんです。なぜかというとその人たちがやったことが正しいどうこうということではなくて、その人たちのおかげで、伝統が全部守られたんです。そういう人たちがいなかったら、そういうものもなくなってしまいました。
 
 三蔵経はちゃんと棚にまつって、礼拝していました。読むんじゃなくて、佛法僧、ということで。そうやって佛教が今まで続いてるんですから。後でタイ、ミャンマーに行ってお坊さんたちが具足戒を受けて戻ってきて、シャム宗、アマラプラ宗、ラーマンニャ宗といった宗派に別れてますけど、教えとして別れているわけではないんです。
 
 そういう点で見ても、他の人がやっていることとかは関係ないんです。
 
 サラナンカラさんは後で法王様になりました。スリランカ最後の、歴史の中で18人いるんですけど、その最後の法王様といわれています。Weliviṭa Saraṇaṅkara Saṃgharāja。
 
−−最後?

 最後のサンガラージャ。
 
−−最初の、じゃなくて?

 最「後」。滅びる前に17人いました。今はサンガラージャという人はスリランカにはいません。
 
−−法王じゃなくて管長さん?

 はい。今法王様がいるのはタイだけ。テーラワーダ佛教のサンガラージャというのは。僧伽(サンガ)の王様ということですね。法王というより僧王と言った方が良いかな。スリランカのサンガラージャは最後のサンガラージャ。このサラナンカラ僧王が具足戒を受けた歳は50代でした。それまでがんばって、子供の時から勉強していました。
 

最後の弟子スバッダ長老


 お釈迦さまが入滅する時、他の悟っていないお坊さんが皆泣いている時に、ある出家、Subhaddha スバッダ長老という、スバッダは二人出てくるんですけど、その時はまだ在家のスバッダという人が来て「お釈迦さまに質問があります」と言うと、アーナンダ長老は「お釈迦さまは疲れていますから質問する時間ではないよ」と言ったんですが、お釈迦さまは「大丈夫です、来て下さい」とおっしゃって、質問は何ですかと訊きました。
 
 「ジャイナ教で何を教えていますか、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、パクダ・カッチャーヤナ等六師外道はこういう教えを説いているんですけど何が正しいですか」と。
 
 お釈迦さまは「それはどうでもいい。これを聞いて下さい」と説法すると彼はとても喜んで、預流果になりました。そして「私を出家させて下さい」と、最後の弟子として出家させました。
 
 スバッダは出家して、お釈迦さまが入滅するまでに阿羅漢になりたいと一生懸命瞑想しました。すると他のお坊さんはそうやって瞑想しているスバッダを見て、なんかおかしい、お釈迦さまは入滅しようとしているのにこの人たちは全然涙も出さないで自分のことだけ考えて瞑想している、などと色々悪口を言っていると、お釈迦さまは「比丘たちよ、きれいな花で私に尊敬する人たちは、本当に私を尊敬している人たちではありません。私を尊敬する人たちは、私が言う通りに実践しますよ」とおっしゃいました。
 
 それを後で間違えて理解して、「お釈迦さまはこのように言いましたから、お花を差し上げることは意味がない、お釈迦さまにお供えすることには意味がない、佛像にお供えするのは意味があることではありません」という人たちが出てきてるんです。
 
 でも、dasa vatthuka sammādiṭṭhi、正見 sammādiṭṭhi の最初の状況、状態というんですかね、それはどういうことかと。
 

邪見・正見について


 ここで邪見について説明しましょう。預流果になると邪見がなくなりますから、預流果の聖者にはこの邪見がない、ということになります。
 
 1. natthi dinnaṃ 布施することは意味がない

 2. natthi yiṭṭhaṃ お供えすることには意味がない

 3. natthi hutaṃ 尊敬、供養することは意味がない

 4. natthi sukaṭadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko 善行為、悪行為の結果が出ることはない

 5,6 natthi ayaṃ loko, natthi paro loko 今世がない、来世がない

 7,8 natthi mātā, natthi pitā 母という特別な人がいない、父という特別な人がいない。母も父も他の人と同じだという考え

 9. natthi sattā opapātikā 化生(けしょう)、(devaputtaなどの)いきなり生まれる生命がいない

 10. natthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imaṃ ca lokaṃ paraṃ ca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentīti この世でもあの世でも、自分の智慧で悟りを開いた沙門、バラモンがいない

 正見はこの逆ですね。
 
 その正見の中に atthi yiṭṭhaṃ とあります。お供えをすることに意味があると信じることは正見であると。だからお釈迦さまにお供えすることによって功徳が生まれます、と信じない人たちは邪見ですよ、ということが教えの中にちゃんとあります。
 
 さてお釈迦さまが入滅する時にその場所を見て言ったのは、お花とかで泣きながらお供えをしている人よりも、佛道を実践している人たちの方が偉いですよ、ということを言うためなんです。お花を差し上げないで下さいよ、ということではありません。
 

お釈迦さまの時代にもいました


 さて、同じ名前のスバッダという人が、泣いているお坊さんを見てその人の所に行って、「なんで泣くの? 大沙門はもうそろそろ死ぬんじゃないんですか。今まで私たちにあれをやってはいけないこれをやってはいけないと命令した人はもうそろそろ死ぬんですから。死んだ後私たちは自由に生きることが出来るじゃないですか
 
−−(爆笑)

 なんで泣くの?」と変な言葉を話したんです。それがマハーカッサパ長老の耳に入りました。マハーカッサパ長老はそれをお釈迦さまに伝えるんじゃなくて、ちゃんと頭に入れておきました。そして入滅した後に他の阿羅漢たちを集めて、「お釈迦さまの教えを守らなければいけない、こういう人たちがもう今から出てきている。これでは将来どうなるかわからない。だから結集したい」と。スバッダという長老の abhaddha vacana、汚い言葉という意味ですね、これがきっかけで第一結集が行われました。
 
 お釈迦さまの時代にもそういう人たちがいました。だから今そういう人たちがいるということは、不思議でも何でもありません。
 

在家は出家の生活を理解しましょう


 お坊さんの生活ってどういうものかと、在家の人たちが理解しないと大変です。
 
 samaṇānañ ca dassanaṃ - etaṃ maṅgalamuttamaṃ.

 お坊さんを見ることは、見かけることは吉祥のことである。
 
 この(見た、見かけた)お坊さんが戒律を守っているか守っていないか、何やってるか等々というのは在家の人にとってはそんなに必要なものじゃないんです。衣を着ているお坊さんが「動物を殺して下さい、お酒を飲んで下さい、人のものを盗んで下さい、人を騙して下さい」と説法するのは私は聞いたことがない。祭りの時だけはお酒を飲んでも良いとか、そういう話さえもしないんです。自分で戒律を守っていなくても、裏ではお酒を飲んでいても
 
−−(笑)

 在家者にはそんなことはさせないんですね。やって下さいとは言わない。お坊さんはそういう説法をするんじゃないんですから、在家者にとっては何の問題もないんです。そのお坊さんたちにお布施をする時も、在家者はそのお坊さんのことを考えてお布施してるんじゃなくて、サーリプッタ長老やモッガラーナ長老のような大阿羅漢たちの徳を観察して「こういう阿羅漢たちから始まっているお坊様方にお布施します」という気持ちでお布施するじゃないですか。だから高い徳になるんです。
 
 自分でやったことの結果は自分でもらうんですから、お坊さんが人を誤魔化して、人に見えないように悪いことをしてお布施を受け取って生活していったら、その結果はそのお坊さんがもらうんです。輪廻転生の中で、今世の中で評判が悪くなったり、それは自分のやったことの結果として受ける。そのお坊さんが在家者にとって悪いことをやっているわけじゃないんです。だから関係ありません。
 
 正しいことを、教えを説いてくれるんだったら、聞くべきです。それを聞かないで、そのお坊さんに悪口を言ったり、そのお坊さんの評判を悪くしたり、色々やるというのは大変大きな罪を犯していることになります。
 
 これは縁起の教えです。考えてみて下さい。お坊様方にお布施をすることによって、この上ない高い徳が得られるというなら、同じように、そういったお坊様方に悪口を言ったり、評判を悪くしたり色々変なことをすると、この上ない大きな罪になるんですよ。
 
 知らないでやってるんです。それを知らないということは、無知なんです。何十年佛教を勉強したって、わからない人にはわかりません。それはもう、その人たちを見て、かわいそうと思うしかないんです。その人たちに対して怒ったり、マハーカルナー禅師のことで色々悪口とか言ってる人たちのことは「かわいそうですね」と思うしかないんです。
 

教えを実践してお釈迦さまに出会う


 アーナンダ長老はお釈迦さまが涅槃に入る時、「もうこれからはお釈迦さまがいなくなります。私は誰にお湯を差し上げればいいのか、お水を差し上げればいいのか、私にアドバイスしてくれる人がいなくなるじゃないですか」そういう言葉を言いながら泣いてたんです。
 
 その時お釈迦さまが言ったのは、「私が死んでも、私が教えた教えが残っています。私はその教えの中にいます。だから、誰かがこの教えをちゃんと勉強して理解して、実践していくと、その人は私とそこで出会いますよ、
 
 yo dhammaṃ passati, so maṃ passati.
 
 誰が教えを見ますか、その人が私を見る。」
 
 という言葉です。それはお釈迦さまが説いている教えをちゃんと勉強するということですよ。
 
−−それにはパーリ語が必須ですか?

 まあパーリ語が無くても、パーリ語から訳されている、本文ですね、解釈とかではありませんよ、そのもの。直訳。だったら問題はありません。直訳でもね、パーリ語の言い回しをそのまま訳してもちょっとわかりにくい。パーリ語で勉強していった方がやっぱりわかりやすい。そうでなかったら、パーリ語から説明している先生から教えを聞いたら一番良いです。
 
−−パーリ語をしっかりと勉強している先生から?

 そうです。そういう方々から。
 

悪を随喜する必要はない


 だから、罪を犯さないようにね。自分でやったことは自分で持って行くんですから。私たちは功徳を随喜します。悪を随喜する必要はないでしょ? なんで他の人がやった悪を随喜するのか。
 
 この世の中、皆同じです。周りの人たちが良ければ私も良い、周りの人たちが悪いことをしてるんですから私も悪いことをする。普通に、皆やってるんですから私もやる、と言うじゃないですか。皆がやってるから私たちもやる。意味を理解してやっているわけではありません。
 
 心を汚すことも、自分よりは周りのことで心を汚している。周りの人たちが変なことをやっている、あれやこれやと自分で思う、自分の心を汚している。
 
 他の人がやったことで自分の心を汚すということは、他の人を殺したい、そのために毒を飲ませたい、その時に自分で毒を飲んで、他の人が死ぬのを待っているみたいな
 
−−(笑)

 ことなんです。
 
−−では悪口を言っている人たちを見ても、かわいそうだなあと、ほっとけば良い、と

 まあ、そうですねぇ。その人たちが聞いてくれる人たちだったら、教えてあげても良いんです。
 
−−聞いてくれる人たちだったら

 そうそう。聞かない人たちだったら、まあしょうがないです。まぁ、強い言葉で返してあげてもいいんですけど
 
−−(笑)

 「あなたたちの業はあなたたちが持って行くんですからね」って、冗談っぽく。
 

縁起による罪の大小


 カルナーさんのことを知らない人たちにその話が伝わる時には、テーラワーダのあるお坊さんがこういう変なことをしました、その人たちからするとテーラワーダの人たちはこういうことをします、となってしまいます。そうすると、四方僧伽にお布施をする時に、この一つという意味じゃなくて、全てのサンガにお布施するという気持ちでお布施していますね。それを四方僧伽のお布施といいますが、四方僧伽のお布施はお布施の中で一番尊い、この上ない功徳が生まれるお布施なるんです。
 
 だからカルナー禅師だけに悪口を言っている人よりは、テーラワーダのお坊さんがこうです、という風に悪口を言っている人たちの方がもっと罪が重くなります。四方僧伽に悪口を言っている。良いことだけに良い結果があって悪いことの場合は悪い結果が少ない、ということはないよ。縁起って誰にでも同じなんです。
 
−−例外はない、と。

 はい。だから私たちは、そういうところで全然怒りません。
 
−−普通にあること、と。

 そうそうそう。
 

スダンマ長老も法難(?)に遭っていた


 スリランカでも時々、村のお寺とかで女性と問題が出て、逃げ出したとかお寺から追い出されたとか、そういう時には私は「ああそうか」、それで終わりです。
 
−−(笑)

 私はそれを経験したことがあります。
 
 私が今住職になっているマータリー、キャンディの近くのお寺にいた私の兄弟子になるお坊さんが、そういう問題があってお寺から追い出されました。その後私は全然手を出さなかった。次は私ということは知ってたんですから、私はお寺に行かなかったんです。
 
 でも他の兄弟子がいるから、そういう兄弟子たちがそこの後を継ぐためにそのお寺に行った。でも村人は好きじゃなかったんです。お坊さん何人か来たんですけど、受け入れなかった。色々言ったり。私はその時、出家したお寺でもあって跡を継ぐ人になっているということで、檀家さんも知ってたんです。誰かお坊さんが欲しいということを管長さんまで手紙を送ってあったんですから。管長さんに言われて私はそこの住職になったわけなんです。
 
 でも私が住職になって行った時も、私にも色々悪口を言ってきたんです。若いお坊さんだからまたそんな問題が起こるんじゃないですかとか。それで、ちゃんと住職になりましたから、住職になった証明書を見せて下さいとか。しかし私はそれを見せませんでした。私は言いました。「これはあなたたちには関係ありません。宗派の管長さんとか秘書さんとか、事務の人たちが来て「このお寺はあなたのものではないよ」と言った時には、その人たちには見せるんです。だから檀家さんにはお寺のことは全然関係ない。このお寺は四方僧伽にお布施したものです。法律的にも住職になっているのは私。だから見せません」と。
 
 それで色んな問題が起こって、お布施しない、色々悪口を言って手紙を送ってきたり、ということが起こりました。
 
 私は手紙が来た時にはスピーカーで、スリランカでは村全部に聞こえますから、大きい声で、夕方のおつとめが終わったらその手紙を読むんです。皆に聞こえるように。
 
−−(笑)

 読んで、最後に回向する時には、その手紙を送ってきた人の名前は書いてないですから、「この手紙を書いて送ってくれた人に感謝します」と回向するんですね。今日佛供養法要を行って積まれたこの功徳によって、この手紙を送ってくれた人が幸せでありますように、幸福でありますように、全ての悩み苦しみがなくなりますように」と、よーく祝福しました。
 
 それで最後に説明します。「何で私はこのように祝福したかというと、私は出来るだけ今世で十波羅蜜を実践していきたいと思ってるんです。だから色々実践していっているところで、忍耐波羅蜜を実践するために私はここに来たと思っています。だから、私に忍耐波羅蜜を実践するためにこうやって助けてくれる人たち
 
−−(爆笑)

 こういう人たちがいなかったら忍耐波羅蜜が出来ないんです。実践することが。だから忍耐波羅蜜を実践するために、こうやって色々送ってくれて本当に感謝します
 
−−(笑)

 ありがとうございます。だから回向しています」と。それでもう、手紙は2枚だけでしたね、来たのは。それで終わり。
 
 その後もまた問題がありました。
 
 私はその時コロンボにいました。お寺からコロンボに行ったり、マハラガマのお寺に行ったり、そこの法事がある時には二、三日泊まったり。お寺に戻ると、お寺には誰もいないんです。食事のお布施を持ってくる人たちは、お坊さんがいないということで、なんか嫌な感じで、持って帰るんです。それでまた問題が起きました。
 
 そこで檀家さんを皆呼んで、「これからは食事のお布施は要りません。誰も持ってこなくてもいいです。これは怒りで言っているわけではありません」と私は言って、食事のお布施は全部なしにしました。
 
 私はお釈迦さまから出家する時に鉢をいただいているし、そのお釈迦さまからいただいた鉢を持って、その寺にいる時には托鉢に行きました。托鉢に出たんです。それでもう一週間くらい托鉢に出ると、皆村の人たちが「もう私たちはこれから間違いなく食事のお布施を持って行きます」と。
 
−−(爆笑)

 この日は私が食事のお布施をします、この日は私に下さい、と皆、朝と昼、食事のお布施を持ってくることになりました。
 
 本当に慈悲の心を持って、忍耐の心を持って色々やると、何の問題も起こらないんです。そこで私が行って、前のお坊さんはここにいて色んな問題が起こりました、あれやこれやと私も悪口を言い出したならば、そのお寺はそうならないんですね。そういうことは、そのお坊さんのことは一切話さない。今もそう。
 
 今はもう、前よりはちゃんと、僧庵も出来て、良くなってるんです。お寺が少しずつ。弟子も沢山いて、その地域で一番多く弟子がいるお寺は私のお寺です。8人もいる。周りの他のお寺には1人、2人しかいない。だから食事のお布施とかある時には、宗派のことは全然関係ないし、近くにあるシャム派のお寺からもラーマンニャのお寺からも、お坊さんが欲しい、私たちに3人、私たちに2人ってね、よく来るんですよ。
 
 だから一人が悪いことをしたって、関係ないんですね。それはその人のことだから。その人が本当に悪いことをしたかどうかということも、見てないじゃないですか。
 
−−本当のところはわからないですよね。

 そう、わからない。だから、聞いた話。
 
−−今回のメールでは、直接確認するな、と

 そのメールもおかしいんです。
 
−−そのメールからおかしいから、私は最初からおかしいと思ったんです。

 なんでそこまでやる必要があるのか。
 
−−やりすぎというか。

 そうそう。
 
−−悪口を言って離れていくくらいならわからないでもないけど

 だから、知らない人たちですから、実際に教えを勉強したって、実践するまでは
 
−−(笑)

 そういう問題が起こります。
 

何十年勉強してもわからない人にはわからない


 ダンマパダの、yamaka vagga ヤマカ・ワッガの最後の偈
 
 bahuṃpi ce sahitaṃ bhāsamāno
 na takkaro hoti naro pamatto,
 gopova gāvo gaṇayaṃ paresaṃ
 na bhāgavā sāmaññassa hoti.
 
 三蔵経全てを勉強して教えを説いたって、その人は教えた通りに実際に実践するまでは、他の人の牛を守っている牛使いの人のように、味を見ない、と。牛からもらう5つの味がありますので、その味を受け取れない人である。だから三蔵経を暗記していても意味がないんですね。
 
 appaṃpi ce sahitaṃ bhāsamāno
 dhammassa hoti anudhammacārī,
 rāgaṃca dosañca pahāya mohaṃ
 sammappajāno suvimuttacitto.
 
 三蔵経全部は勉強していないんですけど、少ししか勉強していない、でもその勉強したものはその通りに実践していくと、その人は法に従って生活する人になります。その人はこのお釈迦さまの財産をもらうことが出来る人になる。アビダンマやあれこれと難しいものを勉強してはいけない、という話ではないよ。
 
−−(笑)

 そんなものを勉強するよりは、吉祥経などで教えている教えを自分のものにして実践していれば、その人たちの方が教えに従って生活する人になる。
 
−−誰か来たようですが?

 いいえ、お坊さんたちです。誰が来たって、こっちに来なければいけないんですから、法話を聞いている時にはそういうことは必要じゃないんです。
 
−−お供えの時間ですが?

 それもね、教えを聞いている時にはお釈迦さまへのお供えがちょっと遅くなったって良いんです。気にする必要はありません。お釈迦さまの教えが一番大事。説法第一ですから。
 

法話・法施は特別


 私が説法している写真を見ましたか? スリランカの雨安居開けの法要の時、わたしは立派な椅子に座っていて、私の師匠が立って話をしているんです、私の隣で。私はいつも師匠に対して尊敬するべきなんですけど、その時は私の方が上なんです。
 
−−法話している時は?

 法話してるんですから。法座に座ってるんですから。他の皆よりは、私が上というより
 
−−大事、だと

 そうそう。なぜかというと、お釈迦さまの教えを説くために色々準備している、だから先生も立って。教えはもんのすごい大事なんです。
 
 説法するお坊さんを大事にする、説法した後に色々お布施をするというのも、だからなんです。
 
 それは個人的にお坊さんにお布施する、という意味ではなくて、説法をしたということで、法に尊敬するために差し上げるんです。それも「法施」になるんです、説法したお坊さんに沢山お布施をするというのは。だから大事なんです。
 
 こういうことは日本ではまだまだまだですね。日本ではなかなか教えてないし、わからないし。
 
−−私も初めて聞きました。そこまでとは思っていませんでした。

 だから私、いつも説法と勉強会は違いますよ、と言っていますね。
 
−−はいはい。

 勉強会の時、私は法話を説くという気持ちは一切無いんですよ。
 
−−ちょっと知識を、と

 そうそう。ただ学校とかで教えてるみたいな感じで、教えてるんです。
 
 説法する時の戒律がありますから。説法する時にはどうやって説法するかと、それを揃えないと
 
−−説法とは言えない、と

 はい。だから勉強会と法話会は違います。秋葉原の場合は勉強会、「初期佛教勉強会」となっていますね。法話会とは言いません。一切そうは書かないでしょ? だからなんです、法話とは言いたくない。
 
 なぜかというと、同じ席に座ってやってるんですから。
 
−−法話は全然違う、と

 違います。法座があってそこに座って、そうじゃなかったらお坊さんが高いところに座って、皆は下に座って聞く、という。
 
−−それは法に対する尊敬を表す、と

 そう。
 

正見とは、考え方を直すこと


 皆幸せになりたい、と思うんですけど、なる道はわかってない
 
−−(笑)

 教えを聞いてただ実践したって、結果が出るかどうか…
 
 心を育てるということは、本当に考え方を直すことなんです。自分の考えを直さないことには、幸せになれないんです。
 

長老があまり書いてほしくなかった話


 今私にも、お金の問題とか出てきてるんですけど、ま、全然関係ない話なんですが。色んな問題が、心が苦しくなるような、気持ちが起こってるんです。でも、そんなことがあったって、私の生き方は全然変えてないんです。
 
 今も私はできるだけ人を助けてあげたり、勉強にはなっているんですね。というのは、人からお金を借りて他の人に渡したり、紹介してこの人を助けてあげて下さいとか、そういうことは一切しないようにしました。そうやってすると大変。でも自分でお金を持っていたら、どのくらい困っている人が来ても、その人たちにはあげて、助けてあげます。自分で持っていたら、ね。なかったら、ないよ、と。それでおしまい。
 
 それはそういうことをやってることで、私たちは喜んでいつも生活してるんです。その喜びって、人に見せるためにやっている喜びではないんです。心からやっていることですから。
 
 今入院している人のことでも、朝早く、5時くらいに病院に行ったり、夜中10時くらいに戻ってきてまた朝行ったり、夜も泊まったり。そうやってるんですけど、とても嬉しいんですね。一人の命を助けてあげることが出来ました。自分でお金はなかったんですけど、人から、それは借りるんじゃなくてお布施としてもらったものですから、全然問題はないし、そうやって自分で出来ることを。それもね、必ず「ください、ください」と願ったわけじゃないんですから
 
−−(笑)

 心からお布施する人たちがどうぞと、そうやって助けてあげることができたということで、喜んでます。そんなことはこれからもやります。スリランカでもやるし、何か起こったって、人に騙されたとかといって、人を助けてあげることをやめるわけじゃないんです。それをやめてしまったら、今まで何十年も何を勉強してきたか、って思ってしまいます。
 
 お釈迦さまも輪廻転生の中で、いつもお釈迦さま、その時は菩薩ですね、菩薩よりずっと低いレベルの人たちにもお布施をしてたじゃないですか。助けてあげてたじゃないですか。
 
 その人たちは淫らな生活をしているということもわかってるのに、助けてあげる。それはなぜかというと、自分の心を清らかにするため、それをやってその人たちに褒めてもらうために、どこかにいった時に助けてくれるんじゃないかとか期待してやってるわけじゃないんです。教えを実践すると、その苦しみはないんです。
 
 勉強になったのは、シンハラ語で、絶対保証人にはならないんだけど、一生懸命、という言い方をします。困った人がいたら、その人の保証人にはならないけども、一生懸命その人のために自分で出来ることを全てやってあげます。
 
−−保証人になると色々大変だから。

 そうそう。
 
−−そこの線引きが大事である、と

 大事であるということがわかったんですね。これからはそういうようにする予定、つもりでいます。日本に来て住むところがなくて、ここに来て泊まったりする人たちがいますね。ああいう人たちには、場所はありますからどうぞ泊まって下さい、食べ物もあげる。そうやっていろいろやってあげます。その人たちに仕事が見つかってどこかに行った後お寺に来るか来ないか、お布施をするかしないかということは、それはその人たちの性格なんです。それは、やったら素晴らしいことなんですけど、やらなくたって、それはその人たちのせいですので、私たちはこっちで怒る必要はないんですね。出来る時には来て色々やると思うし、やらなくたって、ま、やってもらいたいという気持ちでやったわけじゃないんですから。
 
 それにも反対する人たちがいます。
 
−−へぇ!

 ええ。なんで僧庵に住まわせるのか、一日二日ならいいんですけどなんで何ヶ月もいるのか、ここはスリランカじゃない、日本ですから大変じゃないですか、とかあれこれ言う人たちもいます。そういう人たちの話を聞いて、まぁかわいそうですねえ、教えがわからないんですねえ。そういうことですね。
 

終わり


 余計な話もしたかも知れませんが。
 
−−ありがとうございました。

 全部書かなくても良いですからね。
 
−−え?

 最後まで全部書かなくても良いですから。
 
−−え(笑)? 最後の方がすごく感動したんですけど

 ああそうですか(笑)。じゃあ好きに書いて下さい