2018-09-02

佛陀の九徳 ~ 正自覚者1、四聖諦


(これはスダンマ長老から教えていただいたものを録音し、書き起こしたものです)

正自覚者 sammā sambuddha


 今日はお釈迦さまの九徳の中で二番目の徳、sammā sambuddha という徳について説明します。
 
 sammā sambuddha というのは正自覚者である、ということですね。<完全たる悟りを最初に覚って、その悟りへの道を他に教えられる方>、完全に悟りを開いたということです。

sambuddha は正自覚者と独覚佛陀


 この sammā sambuddha という言葉は、sammā、sam、buddha という三つの単語に分けることができます。sambuddha といったらもう完璧に悟った、という意味です。sammā sambuddha とは自分で、一人で悟りを開いた人ということ。一人で悟った方に sambuddha というんですから、正自覚者と独覚佛陀、その二人ともに sambuddha という言い方をします。

 時々テーラワーダ佛教の国でも、間違えている人がいますね。sambuddha といった時は正自覚者だけ、というように理解している人もいますが、それは間違いです。sambuddha とは自分で悟りを開いた、誰も悟りのために教えてくれた人はいない。正自覚者と独覚佛陀、二人とも自分で悟りを開いていますから、正自覚者と独覚佛陀という二人に sambuddha という言い方を使っています。

sammā sambuddha は正自覚者だけ


 しかし sammā sambuddha というのは正自覚者だけです。今でいうと釈迦牟尼佛陀だけです。

 (日本テーラワーダ仏教協会の)日常読誦経典の最後の方に、二十八過去佛を念じる護経というのがありますね。ここに28人の佛の名前が出てきます。その28人が正自覚者であります。独覚佛陀ではありません。今までに28人の正自覚者がいました、ということですね。結構前のことです。

mahā bhaddakappa 大賢劫


 いま私たちが生きているこの劫のことはパーリ語で mahā bhaddakappa、大賢劫と言います。kappa 劫という言い方をするんですけど、mahā bhaddakappa という時は、普通の劫よりも長いんです。 mahā bhaddakappa は antarakappa というまた別な劫に分かれています。

 いま私たちが生きているこの劫は mahā bhaddakappa、この劫の中で佛、正自覚者がこれまでに4人、生まれました。カクサンダ佛、コーナーガマナ佛、カッサパ佛とゴータマ佛という4人ですね。

独覚佛陀


 カッサパ佛が入滅してその佛の教えが世の中から一回消えて、佛教が無い、長~い時代がありました。その長い時間の間に十波羅蜜を実践して完璧に終わった方々が現れてくると、その人々はもう悟りを開かなければいけないんです。十波羅蜜を実践してもう終わりですから。
 
 そうするとその時代には佛がいませんから、そういった方たちは自分で修行して悟りを開きます。そうやって悟りを開いた方々のことを独覚佛陀といいます。独覚佛陀というのは、正自覚者がいる時には生まれません。正自覚者がいない時、自分で悟りを開く人たちのことを独覚佛陀というんです。だからゴータマ佛陀が生まれた日に、一番最後の独覚佛陀も涅槃に入りました。それは経典の中に出てくる話です。

佛教がある間は独覚佛陀も生まれない


 正自覚者が生まれてきて悟りを開いて説法すると、その説法を聞いて悟りを開く人たちが出てきます。その人たちのことは大乗佛教では声聞乗といわれてるんですけど、私たちは阿羅漢とか阿羅漢佛陀という、悟った方々のことですね。佛教がある今は、悟ることのできる方々は阿羅漢になって悟るわけです。
 
 なので、独覚佛陀になって悟る人とか、正自覚者になって悟りを開く人は今はいないんです。日本には時々そういう人が出てきますね(笑)。正自覚者になった、という人が。時々佛陀になったという人が出てきますけど、それはもうテーラワーダ佛教では考えられないことです。

正自覚者


 そういうことで、正自覚者、sammā sambuddha という徳の説明をすると、どこにも間違いがなくて、完璧に悟りを開いて、自分で理解したその悟りの道を他の人々にも説明することができる人、ということになります。過去、現在、未来、という三つのことを間違いなくすべてわかっている人、という意味ですね。すべて知ってる人たちの中でお釈迦さのように知っている人は、どこにもいません。
 
 たとえば私たちはいろいろ勉強をしますね。勉強する時はいろんな先生の所に行ってその先生たちからいろいろ聞いて勉強します。そうやってとても勉強して頭がいい人になったとか言う人もいます。
 
 でもお釈迦さまというのは、そうではありません。師匠がいなかったんです。これを説明する時に、ある人々はシッダッタ王子はお城から出ていろんな先生の所に行ったんじゃないですか、アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタとかね、そういう名前の仙人たちの所に行っていろいろ勉強したんじゃないですか、と質問したりします。でも、その人たちからも一応勉強したんですけど、その勉強は悟りのためには何も役に立たなかったんです。ただ禅定に入ることだけです。
 
 お釈迦さまは前世、いろんな佛の弟子として出家したことがあります。最後にカッサパ佛の弟子としても出家したんです。お釈迦さまの前世物語ではそれがちゃんと出てきます。最後のカッサパ佛の弟子として、その時はゴータマ大菩薩ですね。カッサパ佛の下で出家して、そのカッサパ佛からvivaraṇa 授記という、あなたは将来ゴータマ佛陀という名前で正自覚者になって悟りを開きますよ、とみんなの前で言われたんです。
 
 そのようにいろんな佛の弟子になったことがあります。でもそうやって弟子になっても四諦、八正道のことを勉強しても、この最後の生まれ、シッダッタ王子として生まれた後には、誰からも悟りの道を教えてもらわなかったんです。だからお釈迦さまは一生懸命六年間苦行して、それでも苦行では悟れないということをちゃんと理解して、初転法輪経の中にあるとおり、kāmesu kāmasukhallikānuyogo それから attakilamathānuyogo 楽行も苦行も悟りの役に立つ修行法ではないと。だから中道というものを発見して、アーナーパーナ冥想をして悟りを開いたんです。そのアーナーパーナ冥想は、誰も教えてくれなかったんです。自分で理解して、わかって、実践して、悟りを開くことができました。
 
 この sammā sambuddha という言葉は、アビダンマの中のpuggalapaññattippakaraṇa で、こう説明してあります。

katamo ca puggalo sammāsambuddho. idhekacco puggalo pubbe ananussutesu dhammesu sāmaṃ saccāni abhisambujjhati. tattha ca sabbaññutaṃ pāpuṇāti. balesu ca vasibhāvaṃ. ayaṃ vuccati puggalo sammāsambuddho.

 sammā sambuddha というのはどういう意味ですかと。自分の力ですべての法を理解して、苦諦・集諦・滅諦・道諦という四諦をきちんと理解して、心の中で微塵も疑問が生まれない、完璧にわかった人たちのことを sammā sambuddha といいます。だから簡単に言うと四諦、八正道をちゃんと理解した人という意味で sammā sambuddha といいます。
 
 この sammā sambuddha という徳がある人たちには、徳というよりも智慧といった方がいいですね、わかりやすい、sammā sambuddha という、すべてをわかる、その智慧が生まれる時、それと同時に dasabalañāṇa という十の智慧が生まれます。日本語では十力智、ですか?

四諦、四聖諦


 四諦のことは説明しなくてもいいですね。苦諦・集諦・滅諦・道諦のことは皆さん結構勉強してると思います。説明する必要はないと思いますが、どうですか? 簡単に説明した方がいいかな。

 そうしたら最初に四諦の説明をします。四諦。初転法輪経の中で、ちゃんとお釈迦さまはその四諦・八正道のことを説明しています。

苦諦


idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkham ariyasaccaṃ: jāti'pi dukkhā, jarāpi dukkhā, vyādhi'pi dukkho, maraṇam'pi dukkhaṃ, appiyehi sampayogo dukkho, piyehi vippayogo dukkho, yam'pi'cchaṃ na labhati taṃ'pi dukkhaṃ saṃkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.

 苦諦のことですね。idaṃ kho pana, bhikkhave, 比丘たちよ、dukkham ariyasaccaṃ 苦という四聖諦はどういうものですかというと、jāti'pi dukkhā 生まれは苦である、jarāpi dukkhā 老いることは苦である、vyādhi'pi dukkho 病気になることは苦である、maraṇam'pi dukkhaṃ 死ぬことは苦である。

 appiyehi sampayogo dukkho 怨憎会苦、悪い人と付き合うことは苦である、piyehi vippayogo dukkho 愛別離苦、良い人と別れることも苦である、yam'pi'cchaṃ na labhati taṃ'pi dukkhaṃ 自分がほしいと思ってるものがもらえないとそれも苦であります、saṃkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā この身体は、五蘊でできているこの身体はすべて苦であります、ということを教えています。

 これを日本語では四苦八苦といいますね。苦諦は簡単に説明すると、そういうことです。jāti'pi dukkhā 生まれはどうして苦なのですかとか、いろんなところでスマナサーラ長老が説明していますから、それは長老の本を読めばわかると思います。

集諦


 samudayasacca、集諦。原因ですね。

idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkhasamudayaṃ ariyasaccaṃ: yāyaṃ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatratatrābhinandinī, seyyathīdaṃ, kāmataṇhā, bhavataṇhā, vibhavataṇhā.

 と初転法輪の中で説明してあるのは、苦の始まる原因はなんですかと、どうして苦が生まれるんですかというと、煩悩があるから、欲望があるから煩悩が生まれます、と。煩悩は三つに分けて教えます。kāmataṇhā 欲愛、五官の欲求に応えるもの、bhavataṇhā 有愛、ずっと存在したいという自我の状態への欲求、vibhavataṇhā 無有愛、破壊したい、消滅させたい、何らかの存在から自我が離れることへの欲求。

 意味はわかりましたか? kāmataṇhā というのは五蘊についてのことですね。この五蘊はどうやって生まれたか、そのまま変化しないでずっとありますか、とかそうやって考えて、五蘊を自分のものとして捕まえてしまうことですね。

 bhavataṇhā というのは、解脱しないでずっとこの世の中に生きていきたい、という気持ち。これはたくさんの人々の心にあるんです。だから私たちはずっと解脱しないで、輪廻転生しながら生まれ変わり続けているんです。

 それから vibhavataṇhā というのはまた不思議なことで、もう生まれたくない、という考えのある人もいるんです。お釈迦さまの時代にいた六師外道の先生たちの中にも、こういう愛欲のある人たちがいたんですね。次の生まれ変わりはない、もう死んだらそれでおしまい、次の bhava、次に生まれ変わることはありません、と考える人もいるんですね。それは正しいことではありません。それも一つの欲、として教えています。

 この三つの欲があるから私たちは生まれ変わりながらずっと輪廻転生しているんです、ということですね。それは苦の原因である、とお釈迦さまは教えられました。

滅諦


 それから滅諦ですね。

idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkhanirodhaṃ ariyassaccaṃ: yo tassāy'eva taṇhāya asesavirāganirodho cāgo, paṭinissaggo, mutti anālayo.

 悟りを開いたら、解脱できたら、もうそれですべての苦がなくなるということが分かったんです。それがわかる智慧のこと、悟りを開くことができるということは、滅諦ですね。nirodha というのは煩悩がない、という意味です。ですから dukkhanirodhaṃ ariyassaccaṃ その苦を滅する四聖諦、という言い方をするんです。煩悩をすべて消して涅槃に入ることができます、という真理のことですね。

道諦、八正道


 その次は道諦。涅槃に行くためにはどの道を使ったらいいですか、ということで、それは八正道であるということを教えています。八正道は

idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṃ. ayam'eva airyo aṭṭaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammā diṭṭhi, sammā saṅkappo, sammā vācā, sammā kammanto, sammā ājīvo, sammā vāyāmo, sammā sati, sammā samādhi.

 と、dhammacakkappavattana sutta の中で教えられています。

 八正道とは、sammā diṭṭhi 正見、善い見方、sammā saṅkappo 正思惟、善い考え、sammā vācā 正語、善い言葉、sammā kammanto 正業、善い仕事、sammā ājīvo 正命、善い生き方、sammā vāyāmo 正精進、善いがんばる力、sammā sati 正念、善いサティ、sammā samādhi 最後に正定、善い禅定に入ること、ですね。その道を歩む人には、もう必ず解脱できるということです。

三学、戒定慧


 三学という教えがあります。三学というのは戒・定・慧ですね。八正道を三つに分けると、この三学の中に入ります。sammā vācā, sammā kammanta, sammā ājīva という三つ、善い言葉と善い仕事と善い生き方というのは戒、戒律の中に入ります。それから sammā vāyāma, sammā sati, sammā samādhi というのは定、禅定のことですね。sammā diṭṭhi, sammā saṅkappa というのは智慧です。だから三学を学ぶことです、八正道を歩むというのは。

anupubba sikkhā, anupubba kiriyā, anupubba paṭipadā.

 pahārāda sutta という経典があります。スマナサーラ長老が書いた「仏道の八不思議」という(日本テーラワーダ仏教教会の)施本があります。この本は pahārāda sutta を説明して書いてある本ですから、それを読んでみてください。そうするとその戒定慧もわかります。

 anupubba sikkhā, anupubba kiriyā, anupubba paṭipadā と悟りの道は順番であるということで、あっちこっちに飛んでいくことはできません。だから一から順番に実践していかなければいけない、ということですね。

 pahārāda sutta では、海の、海にある八つの不思議なことに対して、佛教にも八つの不思議なことがあるよとたとえています。

 海は海岸から海の中の方へ次第に深くなっていきます。海に入る所は深くないですね。それからだんだん深くなっていきます。入った所からいきなり一番深いとこに行くわけじゃないんです。それと同じように、anupubba sikkhā というのは、戒律をちゃんと順番に守っていくと涅槃に行けます、ということです。anupubba kiriyā, anupubba paṭipadā も同じ。anupubba という意味は、順番に行かなければいけないということですね。

 だから私たちは正見から始まるんですけど、八正道を戒定慧に分けるときは三番目から、正しい言葉、それから正しい仕事、正しい生き方という三つ、これが戒の中に入ります。だから最初に戒律を守らなければいけないということ。戒律を守りながら、冥想するんです。

戒律を守らない人は、冥想してもうまくいかない


 戒律を守らない人は、冥想しても、うまくいかないんです。だから戒律が一番です。それで次に禅定に入るために sammā vāyāma, sammā sati, sammā samādhi、vāyāma というのは精進、がんばる、sammā sati 正しい念と sammā samādhi 正定、サマーディ。そうやって正しい禅定に入ると sammā diṭṭhi, sammā saṅkappo 正見と正思惟が生まれます。それによって四諦、八正道をちゃんと理解することができるようになる、ということです。