2009-11-30

スリランカ最大の仏像 造立中 (スリランカ・クルネーガラ)


アマラモウリ・ナーヤカ大僧正    

 2001年3月、アフガニスタンのバーミヤン仏像が、タリバンの過激派によって破壊されました。世界中の人々が、この出来事に衝撃を受けました。スリランカの人たちも非常に心を痛めました。その日、クルネーガラのランバダガッラの村人たちが私のお寺に集まって、仏像が壊されたことについて話しました。その話が終わって、みんなが帰るとき、15歳の少年が私に聞こえるように、「みんなでモスクを壊しましょう!」と言いました。私はそれに答えなければなりませんでした。私はその少年にこう言いました。

 「仏教の歴史では、たとえ誰かが私たちを殴っても、殴った相手にたいして、殴り返したことはありません。仏教は慈悲の教えです。ですからモスクを壊すのではなく、そのかわりに仏像を一つ造ったほうがいいんじゃないですか。それも、ここにこんなに大きな岩山がありますから、このぐらいの仏像を造ってもいいんじゃないですか」

 これは、よく熟考して言ったことではありません。そのとき、ただ子どもに答えるために言ったことです。でも、これは仏像を造る始まりになりました。

 具体的に行動をおこすことになりました。村人たちは、できるだけ大きな仏像を造ることを望みました。バーミヤン仏像ぐらいの大きさの仏像を造ることを話し合い、そしてその考えは次第に広まっていきました。

 ウェサックの満月の日(5月5日)、小学校の子どもたちが数人お寺にやって来て、十戒を守りました。(スリランカでは満月の日は国の祝日になっています。その日、多くの人はお寺に行き、戒律を守ったり、瞑想をしたりします)

 お昼前ごろ、子どもたちの親たちが、戒を守っている子どもたちのために、食事のお布施を持ってきました。
 修行が終わってお寺から帰るとき、5,6人の子どもたちが私のところにやってきて、一握りのお金を私にお布施しました。私は、このお金が何か、どういう意味のものなのか、わかりませんでした。子どもたちは言いました。「仏像を造るためのお金です」と。実際のところ、私たちはまだ仏像を造ることをはっきり決めていなかったので、とても驚きました。お金を数えると、1358ルピー。ほんの少しでした。しかし、この子どもたちが集めたこのお金が、仏像を造るための最初の基金となったのです。
 子どもたちは将来を担う大切な存在ですから、子どもたちがおこなったこの行為は大変意味深いことです。ですから私たちがいま造っている仏像は、次世代の子どもたちのためのものでもある、と言うこともできるでしょう。

 それから、仏像を造ろうと思っても、スリランカにはすばらしい仏師がいませんでした。数か月後、ある人に出会いました。コロンボのイーシュワラン・ブラザーズ社の会長、D. イーシュワラン氏です。彼はタミル人でヒンドゥー教徒でした。しかし仏教に精通していました。私は彼に「私たちは仏師を探していますが、なかなか見つかりません」と話しました。1週間後、彼は南インドの仏師、M. M.スタパティ氏(Mr. M. M. Sthapathi)を紹介してくれました。スタパティ氏はインド政府から「パドゥマッスリ賞」という栄誉賞を受賞した方です。スタパティ氏は快く、責任を持って、引き受けてくれました。

 それから1か月もたたないうちに、チーフの仏師がスリランカの私たちのお寺に訪れ、大きな岩山を見ました。私たちは最初、高さ50フィートぐらいの仏像を造ることを考えていましたが、彼は、この岩からは65フィートの仏像が造れると言いました。

 翌朝、私たちはアヌラーダプラのアウカナ仏像を見に行きました。3日後、スタパティ氏はインドに戻り、私たちに、仏像造立の建設費用の見積もりを送ってくれました。そしてなんの契約書も書かないまま、仏像の建設にとりかかったのです。私たちは心を打たれました。これは、お釈迦様のお力でしょう。

 2002年9月13日の朝、岩を掘り始めました。スタパティ氏とともに、8人のタミル系インド人の仏師と、スリランカで最大の仏像を造り始めたのです。
 まず、表面の岩を掘り、ごつごつした岩を滑らかに削りました。そのために3年かかりました。もうすぐ2010年ですから、8年たつことになります。その間、私たちはさまざまな困難にであいました。金銭的な問題に関しては、大変困難を味わいました。

 一般の方々は、お金を少しずつ集めて、このプロジェクトに寄付してくださいました。今までこのプロジェクトのために2500万円を費やしました。数年前、スリランカ駐在のインドの元大使、ニルーパマ・ラーオー大使が、実際に現地を訪れました。そして「これはインドとスリランカの架け橋となるものです」と言い、2006年、250万円ものお金を寄付してくださいました。

 このプロジェクトがきっかけで、スリランカの人たちの考え方に、少しずつ変化が見られるようになりました。寄付をするなど、人々の行動が変わってきたのです。

 スリランカでは800年間、大きな仏像が造られていません。アヌラーダプラとポロナルンワ時代は大変豊かで繁栄し、とても幸福な時代でしたが、当時でも、このぐらいの大きさの仏像は造っていませんでした。

 アヌラーダプラのアウカナ仏像や、ポロンナルワのガルビハーラの仏像が造られた時代は、特別な時代でした。そして現在、このサマーディ仏像を造っている21世紀も、スリランカにとっては特別な時代といえます。30年ものあいだ続いた戦争が終わり、国の人々の苦しみがなくなって、平和を取り戻したのです。

 バーミヤンの仏像が壊されたことがきっかけで、我々は仏像を造り始めました。バーミヤンの仏像が壊されたことは、悲しい出来事かもしれません。しかし今、シンハラ人とタミル人、イスラム人、そして世界の人々が力を合わせ、さまざまな形で協力しあい、仏像を造っています。宗教を越えて「善」を実践していることは、大変価値のあることではないでしょうか。


2009-08-01

回向 (Patti dana)

 回向のことを、パーリ語で「anumodanā」といいます。また、功徳を回向することを、pattānumodanā といいます。パッタは、功徳(puñña)という意味です。
 パッターヌモーダナーをわけると、


 パッティ+アヌ+モーダナー=パッターヌモーダナー
 です。

 ・パッティ = 功徳
 ・アヌ  = したがって
 ・モーダナー=モーダティという動詞からできた名詞で、喜び

という意味です。それで全体の意味は「功徳をみんなにわけてあげる」になります。

 サンスクリット語では回向のことを、パリナーマナー「parināmanā」と言います。変化する、大きくなる、めぐらす、という意味です。スリランカでは、差し上げるという意味で使っています。


どうやって喜ぶか?

 みんないろんなことをして喜びますが、このアヌモーダナーの喜ぶ(modati)というのは、自分が善いことをして喜ぶという意味です。心が清らかになることをして喜ぶのです。

 たとえばスリランカでは、困っている人を助けてあげること、戒律を守ること、お布施をすること、ボランティアをすること、説法をすること、説法を聞くこと、目上の人を尊敬すること、親をだいじにすること、お寺や学校、道のそうじをすること、動物にえさをあげることなどをおこないます。善いことをすると、心が清らかになります。仏教では、それを功徳といいます。功徳というのは幸せになるために必要なエネルギーです。それはお金で買うことができません。


誰に回向するか?

 自分がつんだ功徳を、自分だけではなく、先祖、両親、親しい人たち、すべての生命に回向します。これは慈悲の心を育てることにもなります。テーラワーダ仏教では、慈悲の瞑想はとても大事な瞑想として、お釈迦様の時代から実践しています。大乗仏教の学者も、いちばん古い経典として考えている、「スッタニパータ」の中に「慈経」があります。その中に「すべての生命はどういうものか」ということが書いてあります。


 Tasā vā thāvarā vā anavasesā,
 dhīgā vā ye mahantā vā
 majjhimā rassa kāṇuka thūlā.
 Ditthā vā ye va 
aditthā
 ye ca dūre vasanti avidūre,
 bhūta vā sambhavesī vā.

 
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
 長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、
 短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
 見たことがあるものも、ないものも、
 遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
 すでに生まれたものも、これから生まれようとするものも


 自分がつんだ功徳をみんなにわけてあげるということは、とても善いことです。功徳を回向することも功徳であるpatti pattānumodana(パッティパッターヌモーダナー)とお釈迦様は教えています。

 功徳を回向することは、善い人がやることです。お釈迦様も、亡くなった人たちに必ず回向しなさい(petanam dakkhinam dajja)と、小部経典(kuddaka nikāya-kuddaka patha)の「ティロークッダ・スッタ」(tilo kudda suttam)で教えています。長部経典(dīghanikāya)の「マハーパリニッバーナ・スッタ」(mahā parinibbāna suttaṃ)には、神々やすべての生命に回向してくださいと教えています。

 このように「誰に回向するのか」の答えは、「すべての生命に回向する」ということです。


すべての生命が回向を受けとることができるか?

 仏教は、Opanaiko―自分が自分で理解して涅槃のほうへ向かう、と教えています。
 Attahi attano natho 自分には自分もない(自分を守ってくれる人は自分です。)、
kohi natho parosiya, 他の人がどうやって自分を助けてくれるのか、とお釈迦様は教えています。

 私たちは病気になったり、年をとったり、苦しんだりすることはいやですが、だれでも自然にそうなります。私たちは、自分の身体は自分のものだと思っていますが、自分の身体も自分でコントロールすることができません。だから、自分の心を育てて自分で悟りをひらくしかないのです。だから、私たちが功徳を回向しても、他の生命を幸せにすることができないのではないでしょうか?

 功徳を生命に回向するとき、それを受けとって喜ぶ人だけ、幸せになります。他の人がやる善いことを見て、自分も喜ぶことができれば、自分もその善いことに参加したことになります。そのときは他人が回向した功徳を自分も受けとったことになります。

 それと同じように、仏教は縁起の教えですから、功徳だけではなく、罪も受けとることができます。他人がやる悪いことを見て、自分がそれをみとめて喜ぶと、その罪に参加したことになります。罪を受けとることをパーリ語でsamadiyati といいます
。罪をもらうという意味です。

 功徳を回向するとき、「自分の両親、親せき、先生、親しい人をはじめ、この功徳を受けとりたい生命がこの功徳を受けとってください」と考えて回向することが正しいやり方です。たとえば「私の亡くなったお父さんだけに回向します」と思って回向したときは、亡くなったお父さんしか受けとることができません。なぜかというと、その功徳はお父さん宛に送ったからです。たとえば、私が誰かに電話をかけます。その電話は、私がかけた相手だけしか出ることができません。それと同じです。誰か特定の人を決めて回向すると、その人にしか受けとることはできないのです。ですから、テーラワーダ仏教では、回向するときは生きとし生けるものに回向します。

2009-06-01

両親を大事にしましょう

 Brahmati mata pitaro pubbachariyati vuccare
 Ahuneyya ca puttanam pajaya anukampaka.
 お母さんとお父さんは梵天であり、最初の先生であり、
 遠くから持ってくるものを受けるに値し、
 みんなにたいして思いやりの心を持っている。

 古代インドでは、梵天がこの世界を創造したという考えがあります。お釈迦様は、それは間違えであるとおっしゃいました。この世界を創造したのは、お母さんとお父さんであり、私たちをこの世の中に生み育てなかったら、私たちはいません。梵天は、みんなにたいして慈悲喜捨の心を持っています。両親も、子どもにたいして慈悲喜捨の心を持っています。慈悲喜捨の心を持っているから、子どもを育て、面倒を見、ごはんを食べさせ、勉強をさせます。ですから両親は梵天と同じです。神々より梵天のほうが上です。神々を信じるよりも梵天を信じたほうがとてもよいです。両親は梵天と同じですから、両親を大事にしたほうがよいのです。

 両親は、最初の先生です。私たちが生まれてから、ひとりで歩くこと、食べること、服を着ること、歯を磨くこと、トイレに行くことなど、最初に教えてくれたのは、両親です。ですから両親は最初の先生であるとお釈迦様はおっしゃいました。

 私たちは大きくなり、結婚し、親から離れて生活していても、両親の面倒を見なければなりません。たとえ両親が遠くに住んでいても、近くに行って面倒を見たほうよいのです。「サンガの九徳」を唱える偈の中には、Ahuneyyaという言葉があります。意味は、遠くから持ってくるものを受けるに値するということです。両親にも同じようにしたほうがいいとお釈迦様はおっしゃいました。

 両親は、私たちにたいしていつも思いやりの心を持っています。私たちが病気になったとき、両親は食べることも寝ることもしないで、そばにいて看病してくれました。私たちが学校へ行って帰りが遅いと、心配して待っています。それは、思いやりの心を持っているからです。ですから、私たちはいつも両親を尊敬しながら、両親を大事にしましょう。


 三宝のご加護がありますように!