2017-07-15
お布施について
日本で「お布施」というと、だいたいお金の徴収のことを指します。しかしこれでは、十波羅蜜のうちの一つ「布施波羅蜜」を満たすことはできません。テーラワーダで言う悟りに至るには十波羅蜜を完成させることが条件ですから、涅槃に至ることができない、ということになります。これはどういうことでしょうか。
お布施というのは立派な修行です。どういう修行かというと、他の生命に自分が持っているもの(物品とは限りません)を与え、善行為をしたと喜ぶ修行です。嫌な気分になったのなら、それは善行為になっていません。布施波羅蜜を積んでいません。
在家の生活は出家に比べて欲の多い生活をしています。ですから自分、「我」に対する執着が多い在家が「自分が目立ちたい」「自分が上に立ちたい」と思うのは自然なことです。その感情と闘うことが欲を減らす修行であり、これは布施行にも当てはまります。例えば「私にはこれだけ財産がある」と見せるために見栄でお布施をすると、それは残念ながら善行為にはなりません。お布施をする前、お布施をする時、お布施をした後、自分の心がどうなっているのか、喜びに満たされているのか見ながら、少しでも嫌な気分になっていたのならよく注意して過ごすことが大事です。ですから、誰かがお布施しているのを見たら「ああ、善いことをしているなあ」と共に喜ぶのであって、決してお布施した人が嫌な気分になるようなことをしてはなりません。皆で同じ金額をお布施しようといって誰かがその分をお布施しなかったとしましょう、その時に「あいつはお布施しなかった」と思ったらお布施しなかった人も嫌な気分になりますし、なにより他のお布施した人も善行為したことにはなりません。徹頭徹尾お布施をして良い気分になるよう、周りも気を遣ってあげることこそが、皆で精舎という共同体を作って涅槃に至る修行をする環境を作り上げている、なによりもの重要な意味となるのです。
実は、富士スガタ精舎は運営的に大変厳しい状況になっています。スダンマ長老から「今年の雨安居が終わったら精舎をたたんでスリランカに帰るか……」という言葉まで出ています。テーラワーダのお布施というのは決して僧伽(サンガ)にお布施することだけを指すわけではありませんが、やはりお釈迦様の教えを伝える僧伽にお布施をすると一番徳が高いとは言います。富士スガタ精舎は、現在の日本ではまだ数が少ない、僧伽に直接お布施ができる場所です。もし皆さんもテーラワーダの教えが日本に根付いてほしいとお考えであれば、この機会に僧伽に対して布施波羅蜜を積んでいただきたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
2017-07-04
2017-07-03
富士スガタ精舎の魅力
富士スガタ精舎ご住職、スダンマ長老より、新たにこのブログに記事を投稿することを許可いただきました、さくらぎ瀞と申します。在家の観点からスガタ精舎、テーラワーダ佛教の情報を日本語で発信いたしますので、よろしくお願いいたします。
スマナサーラ大長老のご活躍により、日本では小乗としか呼ばれていなかった教えが、今では上座部仏教、初期佛教、原始仏教、そしてテーラワーダ佛教という名前でこの国にも浸透し始めてまいりました。
それとともに、「マインドフルネス」のブームで、テレビ等で瞑想が取り上げられることも多くなり、多くのテーラワーダのお坊様、大乗佛教のお坊様が瞑想指導をなさり、それぞれのところで活況を呈していると聞いております。
やはりさすがはマインドフルネスの瞑想、どれもこれも(南伝)三蔵に基づいたものかどうかは私にはわからないのですが、瞑想することによって悩みが軽くなった、明るく前向きに生きることができるようになった等という話がネットを検索するだけでも枚挙にいとまがないことは、これをお読みの方ならよくご存知のことと思います。
それはそれで大変素晴らしいことだと思います。もしその上でテーラワーダにより深く興味を持つことがあるのなら、それは更に素晴らしいことです。
しかしそこで、では日本に於いてマインドフル瞑想のその先、テーラワーダで言う「涅槃」を目指す瞑想とはどういうものかと詳しく教えて下さるお坊様がいらっしゃるのかと考えると、現実はなかなか難しいと言わざるを得ません。
これは決して、日本で瞑想を教えていらっしゃるテーラワーダのお坊様が深く教義を知らない、ということではありません。私が実際にお話を聞いたりネットや書籍等でお坊様がおっしゃることを拝見しますと、私のわかる限りでもやはりよく教義をご存知で、しかし現状日本の考え方や常識自体がテーラワーダの考え方とまるで違うところも多々あるようで、そこを方便を使って説法していらっしゃるという印象です。例えば食厭想や不浄随念などは、テーラワーダに興味がある私でも正直「ちょっと……」と怯んでしまいます。これを大々的に発表しようものなら、テーラワーダについての知識がない人たちに「佛教とはそういうものなのか」と勘違いされてしまいます。
そこで、なぜそんな瞑想が必要なのか、それが涅槃とどう関係があるのか等、勿論既存の本にもヒントはありますし、自分一人で瞑想をすることによって答えを見つけ出す人ももしかしたらいるのかも知れませんが、そこはやはりテーラワーダの専門家に話を聞くのが一番です。より細かく、個人個人のレベルに合わせて道を導いて下さる、それがスダンマ長老でいらっしゃいます。
まず、精舎が皆に開かれています。実際にはスダンマ長老は法要や在日のスリランカの方のお宅でのお食事のお布施等でいらっしゃらないことも多いのですが、大抵は他のお坊様がいらっしゃることでしょう(まだ日本語をしゃべることのできるスリランカのお坊様は決して多くなく、英語、または英語のしゃべれないお坊様だとどうしてもシンハラ語になりますが)。スダンマ長老も他のお坊様も、訊く人が真剣であれば、真摯に質問に答えてくれます。逆に変な意図があると、結構厳しいことは覚悟しておいた方が良いかも知れません。
また、テーラワーダというと瞑想一色という印象を持っている方もいらっしゃるかも知れませんが、スガタ精舎はそうではありません。お坊様がいらっしゃる時には在日のスリランカの方がお食事のお布施によくいらっしゃいます。そこで説法もし、祝福もし、我々在家もそのお食事をいただきます。今はまだ敷地が大きい寺ではありませんので、そういった中で瞑想し続けるのは無理があります。でも、どうしても瞑想だけして過ごしたいという方には、寺の裏がちょうど竹藪になっていますので、まさにその林の中で瞑想三昧に過ごすこともできるのは他の日本のテーラワーダのお寺には無い魅力かも知れません。
佛道実践会という合宿も行っています。しかし、これも他の瞑想実践会とは色が違うかも知れません。参加された方はご存知だと思いますが、まず無言行に徹しません。勿論瞑想の時間は無言行です。が、他の時間は勉強会というか質問会のようになります。こここそが、他にはないこの精舎の魅力です。例えば先ほどの食厭想や不浄随念などはどうしても大っぴらに話すことができない話題です。そういうものこそ、しかも他の修行者たちもいる前で質問しますと、みんなの役に立つというものです。
私が思いますに、瞑想は個人個人で家でやれば良いと思うのです。でもなかなかできないので、特別な時間を作って自主瞑想会もしますし、お坊様がいる前で瞑想実践をすることも素晴らしいことです。でも、この精舎でも同じことをする必要はないのではないでしょうか。スダンマ長老の瞑想指導はアナパナですが、アナパナで指導なさるお坊様も他にいらっしゃいます。せっかく日本語でテーラワーダを語っていただけるスダンマ長老がいらっしゃるのですから、他ではなかなか突っ込むことのできない、深い教義の世界に浸ることができる、それこそが富士スガタ精舎の魅力です。
2017-04-15
2017-01-22
2016-11-10
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