2010-01-14
2010-01-12
2010-01-01
2009-12-30
2009-12-27
お布施について教えたDakkhinavibhanga sutta
Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa
お釈迦様がカピラワットゥのニッグローダマヤ精舎に住んでいるとき、マハーパジャーパティー夫人が新しい布を2枚持ってきて、お釈迦様にこう言いました。
‘‘idaṃ me, bhante, navaṃ dussayugaṃ bhagavantaṃ uddissa sāmaṃ kantaṃ sāmaṃ vāyitaṃ. Taṃ me, bhante, bhagavā paṭiggaṇhātu anukampaṃ upādāyā’’ti.
如来よ、この新しい布は、如来のために私が自分で糸を織って作った布です。あわれみをもってお受けとりください。
お釈迦様はマハーパジャーパティーにこう言いました。
‘‘saṅghe, gotami, dehi. Saṅghe te dinne ahañceva pūjito bhavissāmi saṅgho cā’’ti.
ゴータミーよ、その布をサンガたちにお布施してください。サンガにお布施すると、私にもお布施したことになります。
ゴータミーは、2回、3回とお願いしても、お釈迦様は同じことを言いました。そのときアーナンダ長老は言いました。「世尊よ、マハーパジャーパティーの新しい布をお受けとりください。この方は世尊の叔母であり、養母です。世尊を産んだお母さんが亡くなったあと、乳を飲ませて育てた方です。世尊のために役に立った人です。だから世尊もお母さんの役に立つためにこの布を受け取ってください」
「アーナンダよ、そのとおりです。この世の中にはpāṭipuggalikā dakkhiṇā.という個人へのお布施が14あります。
①Tathāgate arahante sammāsambuddhe dānaṃ deti
正自覚者へのお布施
②paccekabuddhe dānaṃ deti
独覚仏陀へのお布施
③Tathāgatasāvake arahante dānaṃ deti
佛弟子阿羅漢へのお布施
④Arahattaphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
阿羅漢道へのお布施
⑤Anāgāmissa dānaṃ deti.
不還果へのお布施
⑥Anāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
不還道へのお布施
⑦Sakadāgāmissa dānaṃ deti
一来果へのお布施
⑧Sakadāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
一来道へのお布施
⑨Sotāpanne dānaṃ deti
預流果へのお布施
⑩Sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
預流道へのお布施
⑪Bāhirake kāmesu vītarāge dānaṃ deti
愛欲のない修行者へのお布施
⑫Puthujjanasīlavante dānaṃ deti
凡夫で戒律を守る人へのお布施
⑬Puthujjanadussīle dānaṃ deti
凡夫で戒律を守らない人へのお布施
⑭Tiracchānagate dānaṃ deti
畜生へのお布施
「アーナンダよ、畜生にお布施して 受けとる功徳は100 (sataguṇā) の功徳があると思ってください。
(これは、厳密な数量ではなく、ものごとの多さのたとえです)。
戒を守らない人にお布施して 受けとる功徳は、1000 (sahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
戒を守る人にお布施して 受けとる功徳は、100000(satasahassaguṇā)の功徳があると思ってください。
愛欲のない修行者にお布施して受けとる功徳は、1億×1000 (koṭisatasahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
預流道にお布施して受けとる功徳は、限りがないと思ってください。
これより上の方々にお布施して受けとる功徳は、この上ない功徳になると思ってください。
アーナンダよ、saṅghagatā dakkhiṇā.というサンガたちへのお布施は7つあります。
①Buddhappamukhe ubhatosaṅghe dānaṃ deti
世尊と比丘・比丘尼へのお布施
②Tathāgate parinibbute ubhatosaṅghe dānaṃ deti
世尊の入滅後、比丘・比丘尼へのお布施
③Bhikkhusaṅghe dānaṃ deti
比丘サンガへのお布施
④Bhikkhunisaṅghe dānaṃ deti
比丘尼サンガへのお布施
⑤Ettakā me bhikkhū ca bhikkhuniyo ca saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti
比丘サンガ・比丘尼サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
⑥Ettakā me bhikkhū saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti
比丘サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
⑦Ettakā me bhikkhuniyo saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti
比丘尼サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
アーナンダよ、将来、私の佛弟子のなかで戒を守らない悪業をするkāsāvakaṇṭhā dussīlāという者が生まれます。その人たちにも「サンガにお布施します」という心でお布施をすると、受けとる功徳はこの上ない功徳になります。ānanda, saṅghagataṃ dakkhiṇaṃ asaṅkheyyaṃ appameyyaṃ vadāmi. アーナンダよ、私はそのときもサンガに差し上げるお布施の功徳はこの上ない功徳になると教えます。
Na tvevāhaṃ, ānanda, kenaci pariyāyena saṅghagatāya dakkhiṇāya pāṭipuggalikaṃ dānaṃ mahapphalataraṃ vadāmi.
アーナンダよ、私はいつでも(説法するときは)「個人にするお布施よりもサンガにするお布施のほうが、受ける功徳は限りなく大きい」と言います。
アーナンダよ、お布施が4つあります。
①差し上げる側によって清らかになるお布施
②受ける側によって清らかになるお布施
③差し上げる側と受け取る側によって清らかにならないお布施
④差し上げる側と受け取る側によって清らかになるお布施
この4つの中で4番目のお布施が一番功徳が高いのです。
このことは中部経典のdakkhinavibhanga suttaという経典に出てくる教えです。これを見ると、サンガにお布施することは、この上ない大功徳になるということがわかります。お布施するためには、人を区別することができないということもわかります。
お布施は大きく2つにわけることができます。経典の中ででてきたように、個人にするお布施と僧団にするお布施です。個人にするお布施には、お布施のきまりはありません。動物から正自覚者であるお釈迦様までの個人へのお布施は、pāṭipuggalikā dakkhiṇā. といいます。これは前に説明しました。
皆さんがよくわからないのは、僧団にするお布施のことだと思います。出家僧団にするお布施のことを、パーリ語でsaṅghagatā dakkhiṇā.といいます。経典には7つでてきます。
1番目は、世尊と比丘・比丘尼へのお布施で、これは比丘・比丘尼の人数を決めないで、お釈迦様はじめ参加した比丘・比丘尼にお布施することです。
2番目は、世尊の入滅後、比丘・比丘尼へのお布施で、これも比丘・比丘尼の人数を決めないでするお布施です。
3番目は、比丘サンガへのお布施で、これは比丘サンガの人数を決めないでするお布施です。
4番目は、比丘尼サンガへのお布施で、これは比丘尼サンガの人数を決めないでするお布施です。
5番目は、比丘サンガ・比丘尼サンガの中で人数を希望してするお布施です。これは「比丘サンガから○○人来てくださいとか、比丘尼サンガから○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
6番目は、比丘サンガの中で人数を希望してするお布施です。これは「比丘サンガの中から○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
7番目は、比丘尼サンガの中で人数を希望してするお布施で、これは「比丘尼サンガの中から○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
今の仏教社会では6番目のお布施が一番多いです。お寺の檀家さんがお寺に行って、住職に「比丘サンガの中で○○人、お布施のためにいらっしゃってください」とお願いします。
お願いするときは、比丘サンガの中から○○人来てください、とはっきり言わなければなりません。なぜかというと、お布施を受けに行くお坊さんたちは、比丘サンガの代表として行くからです。
それをはっきり言わずに、「○○お坊さん、来てください」とお坊さんの個人名でお布施するときは、個人のお布施になります。
今の仏教徒は、比丘サンガは4人いないと、サンガへのお布施にはならないと考えています。この経典を見ると、そういうきまりがないということがないということがわかります。戒壇でおこなう戒律の儀式には、比丘サンガは4人いなければなりません。それは戒律の中ではっきり決められていることです。 サンガにお布施することは、儀式ではありません。(ただ、お寺や土地等をお布施するときは儀式をおこないます。ここでいうお布施とは、食事のお布施や品物のお布施などのことです)
Mahāvaggapāli の Cīvarakkhandhaka の中には、一人のお坊さんが雨安居に入って「サンガッサデーマ」という言葉で、檀家さんたちがお布施した衣を受けとったということが記されています。
誰かが「サンガッサデーマ」という言葉で、何かを差し上げるならば、それはサンガに差し上げたものになります。それは言葉で言わなくても、心で思って「これをサンガに差し上げます」と差し上げれば、サンガにお布施したことになります。何かをお布施をしたいとお寺に持って行き、それを「サンガにお布施します」という心でお布施すると、サンガに差し上げたことになるのです。この場合、食べ物なら、その日参加しているお坊さんたちみんなで分けて食べます。分けることができない品物の場合は、サンガの中でそれが必要なお坊さんにそれをあげます。そういう人がいなければ、お寺の物として受けとっておきます。 あげたものを返してほしいと言うことはできません。
例をあげましょう。自分が持っているものをどこかの団体にあげるとします。あげるときは、団体の代表として団体の長がそれを受けとります。長が受けとったものは、団体のものになります。あげた後、それを返してください、と長に言っても、それは団体のものですから、いくら団体の長でも、個人的な判断でそれを返すことはできません。これは社会的なルールです。僧団にお布施したものも、このように理解してください。
また、お釈迦様は個人のお布施よりも僧団にするお布施のほうが、この上ない功徳になると教えています。僧団の中にはお釈迦様ももちろん入っています。これはお釈迦様の次の言葉でわかります。「ゴータミーよ、サンガにお布施してください。サンガにお布施すると、私にもお布施したことになります」。
ですから、せっかくお布施するのであれば、この上ない功徳になるために、「このお布施はサンガに差し上げます」と心で思って、差し上げたほうがよいのです。
サンガに差し上げるとき、汚い心で差し上げても、この上ない功徳になりません。そのためには自分の心を清らかにして差し上げなければなりません。
私たちの心にはいつも貪瞋痴があります。貪瞋痴は、煩悩の根元です。パーリ語でakusala mūlaといいます。それをなくすことができるのは、悟りを開いた人だけです。ですから、お布施するときは貪瞋痴を隠してからお布施するのです。隠すことをパーリ語でtadanga prahānaと言います。だいたいの意味は「瞬間の悟り」のような意味です。お布施するときだけ、心を清らかにするのです。これには良い喩えがあります。井戸の水を覆う苔のように、人間の心にはいつも煩悩があり、煩悩で良い心が隠されています。苔で覆われた井戸から水をくみ上げたい人は、バケツを井戸に入れて、苔を淵にかきわけて、水をくみ上げます。でも水をくんでしばらくすると、苔がもとに戻ります。人間の心もそれと同じで、心を清らかにして善いことをすることは、貪瞋痴を一時的になくしてすることです。一時的にでも貪瞋痴をなくしてお布施すると、この上ない功徳になります。
貪瞋痴の貪はlobhaで、欲望のことです。お布施するとき、お金や品物にたいしてある欲望をなくすことのことです。
瞋は、パーリ語でdosaと言います。怒りのことです。たとえば、お布施を受けるために参加しているサンガの個人のことについて、怒りが生まれるかもしれません。そういう怒りをなくすことが大切です。
痴は、mohaで、輪廻転生を信じないこと、お布施をしても善い結果はない、などと考えることです。
貪瞋痴がないこと、alobha, adosa, amohaの心です。その心でお布施することが一番大事です。
仏教の中では、payata pānī パヤタパーニーという言葉があります。意味は「布施で洗った手を持つ」です。お布施という水で自分の手を洗いました、という意味です。
どういうことかというと、手を洗うことで手はきれいになります。汚れが落ちます。それと同じように、自分の心をきれいにしてお布施すること、お布施したものにたいして心の中に貪瞋痴の煩悩が少しも残っていないことです。たとえば、ときどき人々は、自分がお坊さんにあげたものを、お坊さんはちゃんと使っていますか、どこにありますか、などと考えることは、それを完全にお布施していないということです。心にひっかかっているのです。あげた後、それがどうなっているかと考えることは必要ありません。
しかし「私はこういうものをお布施しました」と喜ぶことは善いことです。差し上げたことを思いだしながら喜ぶことは、とても善いことで、功徳にもなります。あげるということは、離すということです。手だけでなく、心でも離さなければ、お布施したことにはなりません。
この法話の功徳によって皆さんが悟りを開けますように。
三宝のご加護がありますように。
お釈迦様がカピラワットゥのニッグローダマヤ精舎に住んでいるとき、マハーパジャーパティー夫人が新しい布を2枚持ってきて、お釈迦様にこう言いました。
‘‘idaṃ me, bhante, navaṃ dussayugaṃ bhagavantaṃ uddissa sāmaṃ kantaṃ sāmaṃ vāyitaṃ. Taṃ me, bhante, bhagavā paṭiggaṇhātu anukampaṃ upādāyā’’ti.
如来よ、この新しい布は、如来のために私が自分で糸を織って作った布です。あわれみをもってお受けとりください。
お釈迦様はマハーパジャーパティーにこう言いました。
‘‘saṅghe, gotami, dehi. Saṅghe te dinne ahañceva pūjito bhavissāmi saṅgho cā’’ti.
ゴータミーよ、その布をサンガたちにお布施してください。サンガにお布施すると、私にもお布施したことになります。
ゴータミーは、2回、3回とお願いしても、お釈迦様は同じことを言いました。そのときアーナンダ長老は言いました。「世尊よ、マハーパジャーパティーの新しい布をお受けとりください。この方は世尊の叔母であり、養母です。世尊を産んだお母さんが亡くなったあと、乳を飲ませて育てた方です。世尊のために役に立った人です。だから世尊もお母さんの役に立つためにこの布を受け取ってください」
「アーナンダよ、そのとおりです。この世の中にはpāṭipuggalikā dakkhiṇā.という個人へのお布施が14あります。
①Tathāgate arahante sammāsambuddhe dānaṃ deti
正自覚者へのお布施
②paccekabuddhe dānaṃ deti
独覚仏陀へのお布施
③Tathāgatasāvake arahante dānaṃ deti
佛弟子阿羅漢へのお布施
④Arahattaphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
阿羅漢道へのお布施
⑤Anāgāmissa dānaṃ deti.
不還果へのお布施
⑥Anāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
不還道へのお布施
⑦Sakadāgāmissa dānaṃ deti
一来果へのお布施
⑧Sakadāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
一来道へのお布施
⑨Sotāpanne dānaṃ deti
預流果へのお布施
⑩Sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
預流道へのお布施
⑪Bāhirake kāmesu vītarāge dānaṃ deti
愛欲のない修行者へのお布施
⑫Puthujjanasīlavante dānaṃ deti
凡夫で戒律を守る人へのお布施
⑬Puthujjanadussīle dānaṃ deti
凡夫で戒律を守らない人へのお布施
⑭Tiracchānagate dānaṃ deti
畜生へのお布施
「アーナンダよ、畜生にお布施して 受けとる功徳は100 (sataguṇā) の功徳があると思ってください。
(これは、厳密な数量ではなく、ものごとの多さのたとえです)。
戒を守らない人にお布施して 受けとる功徳は、1000 (sahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
戒を守る人にお布施して 受けとる功徳は、100000(satasahassaguṇā)の功徳があると思ってください。
愛欲のない修行者にお布施して受けとる功徳は、1億×1000 (koṭisatasahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
預流道にお布施して受けとる功徳は、限りがないと思ってください。
これより上の方々にお布施して受けとる功徳は、この上ない功徳になると思ってください。
アーナンダよ、saṅghagatā dakkhiṇā.というサンガたちへのお布施は7つあります。
①Buddhappamukhe ubhatosaṅghe dānaṃ deti
世尊と比丘・比丘尼へのお布施
②Tathāgate parinibbute ubhatosaṅghe dānaṃ deti
世尊の入滅後、比丘・比丘尼へのお布施
③Bhikkhusaṅghe dānaṃ deti
比丘サンガへのお布施
④Bhikkhunisaṅghe dānaṃ deti
比丘尼サンガへのお布施
⑤Ettakā me bhikkhū ca bhikkhuniyo ca saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti
比丘サンガ・比丘尼サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
⑥Ettakā me bhikkhū saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti
比丘サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
⑦Ettakā me bhikkhuniyo saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti
比丘尼サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
アーナンダよ、将来、私の佛弟子のなかで戒を守らない悪業をするkāsāvakaṇṭhā dussīlāという者が生まれます。その人たちにも「サンガにお布施します」という心でお布施をすると、受けとる功徳はこの上ない功徳になります。ānanda, saṅghagataṃ dakkhiṇaṃ asaṅkheyyaṃ appameyyaṃ vadāmi. アーナンダよ、私はそのときもサンガに差し上げるお布施の功徳はこの上ない功徳になると教えます。
Na tvevāhaṃ, ānanda, kenaci pariyāyena saṅghagatāya dakkhiṇāya pāṭipuggalikaṃ dānaṃ mahapphalataraṃ vadāmi.
アーナンダよ、私はいつでも(説法するときは)「個人にするお布施よりもサンガにするお布施のほうが、受ける功徳は限りなく大きい」と言います。
アーナンダよ、お布施が4つあります。
①差し上げる側によって清らかになるお布施
②受ける側によって清らかになるお布施
③差し上げる側と受け取る側によって清らかにならないお布施
④差し上げる側と受け取る側によって清らかになるお布施
この4つの中で4番目のお布施が一番功徳が高いのです。
このことは中部経典のdakkhinavibhanga suttaという経典に出てくる教えです。これを見ると、サンガにお布施することは、この上ない大功徳になるということがわかります。お布施するためには、人を区別することができないということもわかります。
お布施は大きく2つにわけることができます。経典の中ででてきたように、個人にするお布施と僧団にするお布施です。個人にするお布施には、お布施のきまりはありません。動物から正自覚者であるお釈迦様までの個人へのお布施は、pāṭipuggalikā dakkhiṇā. といいます。これは前に説明しました。
皆さんがよくわからないのは、僧団にするお布施のことだと思います。出家僧団にするお布施のことを、パーリ語でsaṅghagatā dakkhiṇā.といいます。経典には7つでてきます。
1番目は、世尊と比丘・比丘尼へのお布施で、これは比丘・比丘尼の人数を決めないで、お釈迦様はじめ参加した比丘・比丘尼にお布施することです。
2番目は、世尊の入滅後、比丘・比丘尼へのお布施で、これも比丘・比丘尼の人数を決めないでするお布施です。
3番目は、比丘サンガへのお布施で、これは比丘サンガの人数を決めないでするお布施です。
4番目は、比丘尼サンガへのお布施で、これは比丘尼サンガの人数を決めないでするお布施です。
5番目は、比丘サンガ・比丘尼サンガの中で人数を希望してするお布施です。これは「比丘サンガから○○人来てくださいとか、比丘尼サンガから○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
6番目は、比丘サンガの中で人数を希望してするお布施です。これは「比丘サンガの中から○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
7番目は、比丘尼サンガの中で人数を希望してするお布施で、これは「比丘尼サンガの中から○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
今の仏教社会では6番目のお布施が一番多いです。お寺の檀家さんがお寺に行って、住職に「比丘サンガの中で○○人、お布施のためにいらっしゃってください」とお願いします。
お願いするときは、比丘サンガの中から○○人来てください、とはっきり言わなければなりません。なぜかというと、お布施を受けに行くお坊さんたちは、比丘サンガの代表として行くからです。
それをはっきり言わずに、「○○お坊さん、来てください」とお坊さんの個人名でお布施するときは、個人のお布施になります。
今の仏教徒は、比丘サンガは4人いないと、サンガへのお布施にはならないと考えています。この経典を見ると、そういうきまりがないということがないということがわかります。戒壇でおこなう戒律の儀式には、比丘サンガは4人いなければなりません。それは戒律の中ではっきり決められていることです。 サンガにお布施することは、儀式ではありません。(ただ、お寺や土地等をお布施するときは儀式をおこないます。ここでいうお布施とは、食事のお布施や品物のお布施などのことです)
Mahāvaggapāli の Cīvarakkhandhaka の中には、一人のお坊さんが雨安居に入って「サンガッサデーマ」という言葉で、檀家さんたちがお布施した衣を受けとったということが記されています。
誰かが「サンガッサデーマ」という言葉で、何かを差し上げるならば、それはサンガに差し上げたものになります。それは言葉で言わなくても、心で思って「これをサンガに差し上げます」と差し上げれば、サンガにお布施したことになります。何かをお布施をしたいとお寺に持って行き、それを「サンガにお布施します」という心でお布施すると、サンガに差し上げたことになるのです。この場合、食べ物なら、その日参加しているお坊さんたちみんなで分けて食べます。分けることができない品物の場合は、サンガの中でそれが必要なお坊さんにそれをあげます。そういう人がいなければ、お寺の物として受けとっておきます。 あげたものを返してほしいと言うことはできません。
例をあげましょう。自分が持っているものをどこかの団体にあげるとします。あげるときは、団体の代表として団体の長がそれを受けとります。長が受けとったものは、団体のものになります。あげた後、それを返してください、と長に言っても、それは団体のものですから、いくら団体の長でも、個人的な判断でそれを返すことはできません。これは社会的なルールです。僧団にお布施したものも、このように理解してください。
また、お釈迦様は個人のお布施よりも僧団にするお布施のほうが、この上ない功徳になると教えています。僧団の中にはお釈迦様ももちろん入っています。これはお釈迦様の次の言葉でわかります。「ゴータミーよ、サンガにお布施してください。サンガにお布施すると、私にもお布施したことになります」。
ですから、せっかくお布施するのであれば、この上ない功徳になるために、「このお布施はサンガに差し上げます」と心で思って、差し上げたほうがよいのです。
サンガに差し上げるとき、汚い心で差し上げても、この上ない功徳になりません。そのためには自分の心を清らかにして差し上げなければなりません。
私たちの心にはいつも貪瞋痴があります。貪瞋痴は、煩悩の根元です。パーリ語でakusala mūlaといいます。それをなくすことができるのは、悟りを開いた人だけです。ですから、お布施するときは貪瞋痴を隠してからお布施するのです。隠すことをパーリ語でtadanga prahānaと言います。だいたいの意味は「瞬間の悟り」のような意味です。お布施するときだけ、心を清らかにするのです。これには良い喩えがあります。井戸の水を覆う苔のように、人間の心にはいつも煩悩があり、煩悩で良い心が隠されています。苔で覆われた井戸から水をくみ上げたい人は、バケツを井戸に入れて、苔を淵にかきわけて、水をくみ上げます。でも水をくんでしばらくすると、苔がもとに戻ります。人間の心もそれと同じで、心を清らかにして善いことをすることは、貪瞋痴を一時的になくしてすることです。一時的にでも貪瞋痴をなくしてお布施すると、この上ない功徳になります。
貪瞋痴の貪はlobhaで、欲望のことです。お布施するとき、お金や品物にたいしてある欲望をなくすことのことです。
瞋は、パーリ語でdosaと言います。怒りのことです。たとえば、お布施を受けるために参加しているサンガの個人のことについて、怒りが生まれるかもしれません。そういう怒りをなくすことが大切です。
痴は、mohaで、輪廻転生を信じないこと、お布施をしても善い結果はない、などと考えることです。
貪瞋痴がないこと、alobha, adosa, amohaの心です。その心でお布施することが一番大事です。
仏教の中では、payata pānī パヤタパーニーという言葉があります。意味は「布施で洗った手を持つ」です。お布施という水で自分の手を洗いました、という意味です。
どういうことかというと、手を洗うことで手はきれいになります。汚れが落ちます。それと同じように、自分の心をきれいにしてお布施すること、お布施したものにたいして心の中に貪瞋痴の煩悩が少しも残っていないことです。たとえば、ときどき人々は、自分がお坊さんにあげたものを、お坊さんはちゃんと使っていますか、どこにありますか、などと考えることは、それを完全にお布施していないということです。心にひっかかっているのです。あげた後、それがどうなっているかと考えることは必要ありません。
しかし「私はこういうものをお布施しました」と喜ぶことは善いことです。差し上げたことを思いだしながら喜ぶことは、とても善いことで、功徳にもなります。あげるということは、離すということです。手だけでなく、心でも離さなければ、お布施したことにはなりません。
この法話の功徳によって皆さんが悟りを開けますように。
三宝のご加護がありますように。
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