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2010-04-12

Uposatha (ウポーサタ)について

シンハラ語でウポーサタのことを 「ポホヤ」 といいます。日本語で「布薩」といいます。ウポーサタという言葉は、経典の中で5つの意味で使われています。

① 他の日よりも特別に戒律を守って修行する日

② 比丘・比丘尼の布薩をおこなう日

③ 満月の日に守る八斎戒

④ 断食などの苦行

⑤ 象の種類の一つの名前

①番目は、仏教徒のウポーサタの日として使っています。②番目は、比丘・比丘尼の布薩をおこなうウポーサタの日として使っています。③番目は、満月の日に守る戒律の意味で使っています。④番目は、仏教以外の修行者たちがやっている断食などの苦行の意味で使っています。⑤番目は、名前として使っています。

仏教徒は①番目を、満月、新月、上弦の月、下弦の月のウポーサタの意味で使っています。 スリランカでは、毎月の満月の日は国民の休日になっています。むかしは日曜日が休みではなく、満月、新月上弦の月、下弦の月が休みでした。

ウポーサタは、仏教のきまりではなく、お釈迦様が生まれる以前からあったものです。むかしはカレンダーがありませんでしたから、満月や新月の日が、人々が仕事を休んで修行する日とされていました。このように、ウポーサタの日は宗教の日でした。お釈迦様が生まれたときも、他の修行者たちは、この4つの日を宗教の日としていました。他の宗教の人たちはその日に集まって修行者たちといっしょに修行しました。

ある日、ビンビサーラ王がお釈迦様のところへ行き、「他の宗教の人たちはウポーサタの日に集まって修行します。仏教徒もそのようにしたほうがいいでしょうか」と聞きました。
良いことなら誰が言っても認めるお釈迦様は、それはすばらしいと考え、anujaanaani bhikkhave caatuddasii pannarasi attamiyaaca pakkhassa sannipatitunnti. 「比丘たちよ、満月、新月、上弦の月、下弦の月に集まるように決めます」と比丘たちに教えました。その後、仏教徒も満月の日にお寺に行くようになりました。

当時、お坊さんたちはお寺に来る人たちにたいして説法をしていませんでした。人々はそのことをお釈迦様に言ったところ、お釈迦様はanujaanaani bhikkhave caatuddasii pannarasii attamiyaaca pakkhassa sannipatitvaa dhammam bhaasitunti. 「比丘たちよ、満月、新月、上弦の月、下弦の月に集まって説法するように決めます」と言いました。

ある日、ヴィサーカー夫人がお寺に来て、「今日、私は戒律を守ります」と言いました。お釈迦様は、「在家者はこのウポーサタの日に戒律を守りながら阿羅漢たちと同じ生活をすることはとても善いことである」と、ウポーサタの日に在家者に修行することを教えました。このようにしてウポーサタの日には仏教徒の修行する日になりました。

2009-12-27

お布施について教えたDakkhinavibhanga sutta

 Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa

 お釈迦様がカピラワットゥのニッグローダマヤ精舎に住んでいるとき、マハーパジャーパティー夫人が新しい布を2枚持ってきて、お釈迦様にこう言いました。

‘‘idaṃ me, bhante, navaṃ dussayugaṃ bhagavantaṃ uddissa sāmaṃ kantaṃ sāmaṃ vāyitaṃ. Taṃ me, bhante, bhagavā paṭiggaṇhātu anukampaṃ upādāyā’’ti.

 如来よ、この新しい布は、如来のために私が自分で糸を織って作った布です。あわれみをもってお受けとりください。

 お釈迦様はマハーパジャーパティーにこう言いました。
‘‘saṅghe, gotami, dehi. Saṅghe te dinne ahañceva pūjito bhavissāmi saṅgho cā’’ti.
 ゴータミーよ、その布をサンガたちにお布施してください。サンガにお布施すると、私にもお布施したことになります。

 ゴータミーは、2回、3回とお願いしても、お釈迦様は同じことを言いました。そのときアーナンダ長老は言いました。「世尊よ、マハーパジャーパティーの新しい布をお受けとりください。この方は世尊の叔母であり、養母です。世尊を産んだお母さんが亡くなったあと、乳を飲ませて育てた方です。世尊のために役に立った人です。だから世尊もお母さんの役に立つためにこの布を受け取ってください」

 
「アーナンダよ、そのとおりです。この世の中にはpāṭipuggalikā dakkhiṇā.という個人へのお布施が14あります。

①Tathāgate arahante sammāsambuddhe dānaṃ deti  

  正自覚者へのお布施
②paccekabuddhe dānaṃ deti   

  独覚仏陀へのお布施
③Tathāgatasāvake arahante dānaṃ deti   

  佛弟子阿羅漢へのお布施
④Arahattaphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti   

  阿羅漢道へのお布施
⑤Anāgāmissa dānaṃ deti.  

  不還果へのお布施
⑥Anāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti

  不還道へのお布施
⑦Sakadāgāmissa dānaṃ deti

  一来果へのお布施
⑧Sakadāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti

   一来道へのお布施
⑨Sotāpanne dānaṃ deti

  預流果へのお布施
⑩Sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti

  預流道へのお布施
⑪Bāhirake kāmesu vītarāge dānaṃ deti

  愛欲のない修行者へのお布施
⑫Puthujjanasīlavante dānaṃ deti

  凡夫で戒律を守る人へのお布施
⑬Puthujjanadussīle dānaṃ deti

  凡夫で戒律を守らない人へのお布施
⑭Tiracchānagate dānaṃ deti

  畜生へのお布施

 「アーナンダよ、畜生にお布施して 受けとる功徳は100 (sataguṇā) の功徳があると思ってください。
 (これは、厳密な数量ではなく、ものごとの多さのたとえです)。
 戒を守らない人にお布施して 受けとる功徳は、1000 (sahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
 戒を守る人にお布施して 受けとる功徳は、100000(satasahassaguṇā)の功徳があると思ってください。
 愛欲のない修行者にお布施して受けとる功徳は、1億×1000 (koṭisatasahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
 預流道にお布施して受けとる功徳は、限りがないと思ってください。
 これより上の方々にお布施して受けとる功徳は、この上ない功徳になると思ってください。

 
アーナンダよ、saṅghagatā dakkhiṇā.というサンガたちへのお布施は7つあります。

①Buddhappamukhe ubhatosaṅghe dānaṃ deti

   世尊と比丘・比丘尼へのお布施
②Tathāgate parinibbute ubhatosaṅghe dānaṃ deti

  世尊の入滅後、比丘・比丘尼へのお布施
③Bhikkhusaṅghe dānaṃ deti

  比丘サンガへのお布施
④Bhikkhunisaṅghe dānaṃ deti

  比丘尼サンガへのお布施
⑤Ettakā me bhikkhū ca bhikkhuniyo ca saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti

  比丘サンガ・比丘尼サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
⑥Ettakā me bhikkhū saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti

  比丘サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施
⑦Ettakā me bhikkhuniyo saṅghato uddissathā’ti dānaṃ deti

  比丘尼サンガの中で(○○人ほしいと)人数を希望してするお布施

 アーナンダよ、将来、私の佛弟子のなかで戒を守らない悪業をするkāsāvakaṇṭhā dussīlāという者が生まれます。その人たちにも「サンガにお布施します」という心でお布施をすると、受けとる功徳はこの上ない功徳になります。ānanda, saṅghagataṃ dakkhiṇaṃ asaṅkheyyaṃ appameyyaṃ vadāmi. アーナンダよ、私はそのときもサンガに差し上げるお布施の功徳はこの上ない功徳になると教えます。

 Na tvevāhaṃ, ānanda, kenaci pariyāyena saṅghagatāya dakkhiṇāya pāṭipuggalikaṃ dānaṃ mahapphalataraṃ vadāmi.

 アーナンダよ、私はいつでも(説法するときは)「個人にするお布施よりもサンガにするお布施のほうが、受ける功徳は限りなく大きい」と言います。

 アーナンダよ、お布施が4つあります。


①差し上げる側によって清らかになるお布施 
②受ける側によって清らかになるお布施 
③差し上げる側と受け取る側によって清らかにならないお布施
④差し上げる側と受け取る側によって清らかになるお布施

 この4つの中で4番目のお布施が一番功徳が高いのです。

 このことは中部経典のdakkhinavibhanga suttaという経典に出てくる教えです。これを見ると、サンガにお布施することは、この上ない大功徳になるということがわかります。お布施するためには、人を区別することができないということもわかります。

 お布施は大きく2つにわけることができます。経典の中ででてきたように、個人にするお布施と僧団にするお布施です。個人にするお布施には、お布施のきまりはありません。動物から正自覚者であるお釈迦様までの個人へのお布施は、pāṭipuggalikā dakkhiṇā. といいます。これは前に説明しました。

 皆さんがよくわからないのは、僧団にするお布施のことだと思います。出家僧団にするお布施のことを、パーリ語でsaṅghagatā dakkhiṇā.といいます。経典には7つでてきます。

1番目は、世尊と比丘・比丘尼へのお布施で、これは比丘・比丘尼の人数を決めないで、お釈迦様はじめ参加した比丘・比丘尼にお布施することです。
2番目は、世尊の入滅後、比丘・比丘尼へのお布施で、これも比丘・比丘尼の人数を決めないでするお布施です。
3番目は、比丘サンガへのお布施で、これは比丘サンガの人数を決めないでするお布施です。
4番目は、比丘尼サンガへのお布施で、これは比丘尼サンガの人数を決めないでするお布施です。
5番目は、比丘サンガ・比丘尼サンガの中で人数を希望してするお布施です。これは「比丘サンガから○○人来てくださいとか、比丘尼サンガから○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
6番目は、比丘サンガの中で人数を希望してするお布施です。これは「比丘サンガの中から○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。
7番目は、比丘尼サンガの中で人数を希望してするお布施で、これは「比丘尼サンガの中から○○人来てください」と、お寺にお願いしてするお布施のことです。

 今の仏教社会では6番目のお布施が一番多いです。お寺の檀家さんがお寺に行って、住職に「比丘サンガの中で○○人、お布施のためにいらっしゃってください」とお願いします。
 お願いするときは、比丘サンガの中から○○人来てください、とはっきり言わなければなりません。なぜかというと、お布施を受けに行くお坊さんたちは、比丘サンガの代表として行くからです。
 それをはっきり言わずに、「○○お坊さん、来てください」とお坊さんの個人名でお布施するときは、個人のお布施になります。

 今の仏教徒は、比丘サンガは4人いないと、サンガへのお布施にはならないと考えています。この経典を見ると、そういうきまりがないということがないということがわかります。戒壇でおこなう戒律の儀式には、比丘サンガは4人いなければなりません。それは戒律の中ではっきり決められていることです。 サンガにお布施することは、儀式ではありません。(ただ、お寺や土地等をお布施するときは儀式をおこないます。ここでいうお布施とは、食事のお布施や品物のお布施などのことです)

 Mahāvaggapāli の Cīvarakkhandhaka の中には、一人のお坊さんが雨安居に入って「サンガッサデーマ」という言葉で、檀家さんたちがお布施した衣を受けとったということが記されています。

 誰かが「サンガッサデーマ」という言葉で、何かを差し上げるならば、それはサンガに差し上げたものになります。それは言葉で言わなくても、心で思って「これをサンガに差し上げます」と差し上げれば、サンガにお布施したことになります。何かをお布施をしたいとお寺に持って行き、それを「サンガにお布施します」という心でお布施すると、サンガに差し上げたことになるのです。この場合、食べ物なら、その日参加しているお坊さんたちみんなで分けて食べます。分けることができない品物の場合は、サンガの中でそれが必要なお坊さんにそれをあげます。そういう人がいなければ、お寺の物として受けとっておきます。 あげたものを返してほしいと言うことはできません。
 例をあげましょう。自分が持っているものをどこかの団体にあげるとします。あげるときは、団体の代表として団体の長がそれを受けとります。長が受けとったものは、団体のものになります。あげた後、それを返してください、と長に言っても、それは団体のものですから、いくら団体の長でも、個人的な判断でそれを返すことはできません。これは社会的なルールです。僧団にお布施したものも、このように理解してください。

 また、お釈迦様は個人のお布施よりも僧団にするお布施のほうが、この上ない功徳になると教えています。僧団の中にはお釈迦様ももちろん入っています。これはお釈迦様の次の言葉でわかります。「ゴータミーよ、サンガにお布施してください。サンガにお布施すると、私にもお布施したことになります」。
 ですから、せっかくお布施するのであれば、この上ない功徳になるために、「このお布施はサンガに差し上げます」と心で思って、差し上げたほうがよいのです。

 サンガに差し上げるとき、汚い心で差し上げても、この上ない功徳になりません。そのためには自分の心を清らかにして差し上げなければなりません。

 私たちの心にはいつも貪瞋痴があります。貪瞋痴は、煩悩の根元です。パーリ語でakusala mūlaといいます。それをなくすことができるのは、悟りを開いた人だけです。ですから、お布施するときは貪瞋痴を隠してからお布施するのです。隠すことをパーリ語でtadanga prahānaと言います。だいたいの意味は「瞬間の悟り」のような意味です。お布施するときだけ、心を清らかにするのです。これには良い喩えがあります。井戸の水を覆う苔のように、人間の心にはいつも煩悩があり、煩悩で良い心が隠されています。苔で覆われた井戸から水をくみ上げたい人は、バケツを井戸に入れて、苔を淵にかきわけて、水をくみ上げます。でも水をくんでしばらくすると、苔がもとに戻ります。人間の心もそれと同じで、心を清らかにして善いことをすることは、貪瞋痴を一時的になくしてすることです。一時的にでも貪瞋痴をなくしてお布施すると、この上ない功徳になります。

 貪瞋痴の貪はlobhaで、欲望のことです。お布施するとき、お金や品物にたいしてある欲望をなくすことのことです。
 瞋は、パーリ語でdosaと言います。怒りのことです。たとえば、お布施を受けるために参加しているサンガの個人のことについて、怒りが生まれるかもしれません。そういう怒りをなくすことが大切です。
 痴は、mohaで、輪廻転生を信じないこと、お布施をしても善い結果はない、などと考えることです。
 貪瞋痴がないこと、alobha, adosa, amohaの心です。その心でお布施することが一番大事です。

 仏教の中では、payata pānī パヤタパーニーという言葉があります。意味は「布施で洗った手を持つ」です。お布施という水で自分の手を洗いました、という意味です。

 どういうことかというと、手を洗うことで手はきれいになります。汚れが落ちます。それと同じように、自分の心をきれいにしてお布施すること、お布施したものにたいして心の中に貪瞋痴の煩悩が少しも残っていないことです。たとえば、ときどき人々は、自分がお坊さんにあげたものを、お坊さんはちゃんと使っていますか、どこにありますか、などと考えることは、それを完全にお布施していないということです。心にひっかかっているのです。あげた後、それがどうなっているかと考えることは必要ありません。
 しかし「私はこういうものをお布施しました」と喜ぶことは善いことです。差し上げたことを思いだしながら喜ぶことは、とても善いことで、功徳にもなります。あげるということは、離すということです。手だけでなく、心でも離さなければ、お布施したことにはなりません。

 この法話の功徳によって皆さんが悟りを開けますように。
 三宝のご加護がありますように。

2009-08-01

回向 (Patti dana)

 回向のことを、パーリ語で「anumodanā」といいます。また、功徳を回向することを、pattānumodanā といいます。パッタは、功徳(puñña)という意味です。
 パッターヌモーダナーをわけると、


 パッティ+アヌ+モーダナー=パッターヌモーダナー
 です。

 ・パッティ = 功徳
 ・アヌ  = したがって
 ・モーダナー=モーダティという動詞からできた名詞で、喜び

という意味です。それで全体の意味は「功徳をみんなにわけてあげる」になります。

 サンスクリット語では回向のことを、パリナーマナー「parināmanā」と言います。変化する、大きくなる、めぐらす、という意味です。スリランカでは、差し上げるという意味で使っています。


どうやって喜ぶか?

 みんないろんなことをして喜びますが、このアヌモーダナーの喜ぶ(modati)というのは、自分が善いことをして喜ぶという意味です。心が清らかになることをして喜ぶのです。

 たとえばスリランカでは、困っている人を助けてあげること、戒律を守ること、お布施をすること、ボランティアをすること、説法をすること、説法を聞くこと、目上の人を尊敬すること、親をだいじにすること、お寺や学校、道のそうじをすること、動物にえさをあげることなどをおこないます。善いことをすると、心が清らかになります。仏教では、それを功徳といいます。功徳というのは幸せになるために必要なエネルギーです。それはお金で買うことができません。


誰に回向するか?

 自分がつんだ功徳を、自分だけではなく、先祖、両親、親しい人たち、すべての生命に回向します。これは慈悲の心を育てることにもなります。テーラワーダ仏教では、慈悲の瞑想はとても大事な瞑想として、お釈迦様の時代から実践しています。大乗仏教の学者も、いちばん古い経典として考えている、「スッタニパータ」の中に「慈経」があります。その中に「すべての生命はどういうものか」ということが書いてあります。


 Tasā vā thāvarā vā anavasesā,
 dhīgā vā ye mahantā vā
 majjhimā rassa kāṇuka thūlā.
 Ditthā vā ye va 
aditthā
 ye ca dūre vasanti avidūre,
 bhūta vā sambhavesī vā.

 
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
 長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、
 短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
 見たことがあるものも、ないものも、
 遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
 すでに生まれたものも、これから生まれようとするものも


 自分がつんだ功徳をみんなにわけてあげるということは、とても善いことです。功徳を回向することも功徳であるpatti pattānumodana(パッティパッターヌモーダナー)とお釈迦様は教えています。

 功徳を回向することは、善い人がやることです。お釈迦様も、亡くなった人たちに必ず回向しなさい(petanam dakkhinam dajja)と、小部経典(kuddaka nikāya-kuddaka patha)の「ティロークッダ・スッタ」(tilo kudda suttam)で教えています。長部経典(dīghanikāya)の「マハーパリニッバーナ・スッタ」(mahā parinibbāna suttaṃ)には、神々やすべての生命に回向してくださいと教えています。

 このように「誰に回向するのか」の答えは、「すべての生命に回向する」ということです。


すべての生命が回向を受けとることができるか?

 仏教は、Opanaiko―自分が自分で理解して涅槃のほうへ向かう、と教えています。
 Attahi attano natho 自分には自分もない(自分を守ってくれる人は自分です。)、
kohi natho parosiya, 他の人がどうやって自分を助けてくれるのか、とお釈迦様は教えています。

 私たちは病気になったり、年をとったり、苦しんだりすることはいやですが、だれでも自然にそうなります。私たちは、自分の身体は自分のものだと思っていますが、自分の身体も自分でコントロールすることができません。だから、自分の心を育てて自分で悟りをひらくしかないのです。だから、私たちが功徳を回向しても、他の生命を幸せにすることができないのではないでしょうか?

 功徳を生命に回向するとき、それを受けとって喜ぶ人だけ、幸せになります。他の人がやる善いことを見て、自分も喜ぶことができれば、自分もその善いことに参加したことになります。そのときは他人が回向した功徳を自分も受けとったことになります。

 それと同じように、仏教は縁起の教えですから、功徳だけではなく、罪も受けとることができます。他人がやる悪いことを見て、自分がそれをみとめて喜ぶと、その罪に参加したことになります。罪を受けとることをパーリ語でsamadiyati といいます
。罪をもらうという意味です。

 功徳を回向するとき、「自分の両親、親せき、先生、親しい人をはじめ、この功徳を受けとりたい生命がこの功徳を受けとってください」と考えて回向することが正しいやり方です。たとえば「私の亡くなったお父さんだけに回向します」と思って回向したときは、亡くなったお父さんしか受けとることができません。なぜかというと、その功徳はお父さん宛に送ったからです。たとえば、私が誰かに電話をかけます。その電話は、私がかけた相手だけしか出ることができません。それと同じです。誰か特定の人を決めて回向すると、その人にしか受けとることはできないのです。ですから、テーラワーダ仏教では、回向するときは生きとし生けるものに回向します。

2009-06-01

両親を大事にしましょう

 Brahmati mata pitaro pubbachariyati vuccare
 Ahuneyya ca puttanam pajaya anukampaka.
 お母さんとお父さんは梵天であり、最初の先生であり、
 遠くから持ってくるものを受けるに値し、
 みんなにたいして思いやりの心を持っている。

 古代インドでは、梵天がこの世界を創造したという考えがあります。お釈迦様は、それは間違えであるとおっしゃいました。この世界を創造したのは、お母さんとお父さんであり、私たちをこの世の中に生み育てなかったら、私たちはいません。梵天は、みんなにたいして慈悲喜捨の心を持っています。両親も、子どもにたいして慈悲喜捨の心を持っています。慈悲喜捨の心を持っているから、子どもを育て、面倒を見、ごはんを食べさせ、勉強をさせます。ですから両親は梵天と同じです。神々より梵天のほうが上です。神々を信じるよりも梵天を信じたほうがとてもよいです。両親は梵天と同じですから、両親を大事にしたほうがよいのです。

 両親は、最初の先生です。私たちが生まれてから、ひとりで歩くこと、食べること、服を着ること、歯を磨くこと、トイレに行くことなど、最初に教えてくれたのは、両親です。ですから両親は最初の先生であるとお釈迦様はおっしゃいました。

 私たちは大きくなり、結婚し、親から離れて生活していても、両親の面倒を見なければなりません。たとえ両親が遠くに住んでいても、近くに行って面倒を見たほうよいのです。「サンガの九徳」を唱える偈の中には、Ahuneyyaという言葉があります。意味は、遠くから持ってくるものを受けるに値するということです。両親にも同じようにしたほうがいいとお釈迦様はおっしゃいました。

 両親は、私たちにたいしていつも思いやりの心を持っています。私たちが病気になったとき、両親は食べることも寝ることもしないで、そばにいて看病してくれました。私たちが学校へ行って帰りが遅いと、心配して待っています。それは、思いやりの心を持っているからです。ですから、私たちはいつも両親を尊敬しながら、両親を大事にしましょう。


 三宝のご加護がありますように!