2009-08-05
2009-08-01
回向 (Patti dana)
回向のことを、パーリ語で「anumodanā」といいます。また、功徳を回向することを、pattānumodanā といいます。パッタは、功徳(puñña)という意味です。
パッターヌモーダナーをわけると、
パッティ+アヌ+モーダナー=パッターヌモーダナー です。
・パッティ = 功徳
・アヌ = したがって
・モーダナー=モーダティという動詞からできた名詞で、喜び
という意味です。それで全体の意味は「功徳をみんなにわけてあげる」になります。
サンスクリット語では回向のことを、パリナーマナー「parināmanā」と言います。変化する、大きくなる、めぐらす、という意味です。スリランカでは、差し上げるという意味で使っています。
どうやって喜ぶか?
みんないろんなことをして喜びますが、このアヌモーダナーの喜ぶ(modati)というのは、自分が善いことをして喜ぶという意味です。心が清らかになることをして喜ぶのです。
たとえばスリランカでは、困っている人を助けてあげること、戒律を守ること、お布施をすること、ボランティアをすること、説法をすること、説法を聞くこと、目上の人を尊敬すること、親をだいじにすること、お寺や学校、道のそうじをすること、動物にえさをあげることなどをおこないます。善いことをすると、心が清らかになります。仏教では、それを功徳といいます。功徳というのは幸せになるために必要なエネルギーです。それはお金で買うことができません。
誰に回向するか?
自分がつんだ功徳を、自分だけではなく、先祖、両親、親しい人たち、すべての生命に回向します。これは慈悲の心を育てることにもなります。テーラワーダ仏教では、慈悲の瞑想はとても大事な瞑想として、お釈迦様の時代から実践しています。大乗仏教の学者も、いちばん古い経典として考えている、「スッタニパータ」の中に「慈経」があります。その中に「すべての生命はどういうものか」ということが書いてあります。
Tasā vā thāvarā vā anavasesā,
dhīgā vā ye mahantā vā
majjhimā rassa kāṇuka thūlā.
Ditthā vā ye va aditthā
ye ca dūre vasanti avidūre,
bhūta vā sambhavesī vā.
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、
短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
見たことがあるものも、ないものも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
すでに生まれたものも、これから生まれようとするものも
自分がつんだ功徳をみんなにわけてあげるということは、とても善いことです。功徳を回向することも功徳であるpatti pattānumodana(パッティパッターヌモーダナー)とお釈迦様は教えています。
功徳を回向することは、善い人がやることです。お釈迦様も、亡くなった人たちに必ず回向しなさい(petanam dakkhinam dajja)と、小部経典(kuddaka nikāya-kuddaka patha)の「ティロークッダ・スッタ」(tilo kudda suttam)で教えています。長部経典(dīghanikāya)の「マハーパリニッバーナ・スッタ」(mahā parinibbāna suttaṃ)には、神々やすべての生命に回向してくださいと教えています。
このように「誰に回向するのか」の答えは、「すべての生命に回向する」ということです。
すべての生命が回向を受けとることができるか?
仏教は、Opanaiko―自分が自分で理解して涅槃のほうへ向かう、と教えています。
Attahi attano natho 自分には自分もない(自分を守ってくれる人は自分です。)、 kohi natho parosiya, 他の人がどうやって自分を助けてくれるのか、とお釈迦様は教えています。
私たちは病気になったり、年をとったり、苦しんだりすることはいやですが、だれでも自然にそうなります。私たちは、自分の身体は自分のものだと思っていますが、自分の身体も自分でコントロールすることができません。だから、自分の心を育てて自分で悟りをひらくしかないのです。だから、私たちが功徳を回向しても、他の生命を幸せにすることができないのではないでしょうか?
功徳を生命に回向するとき、それを受けとって喜ぶ人だけ、幸せになります。他の人がやる善いことを見て、自分も喜ぶことができれば、自分もその善いことに参加したことになります。そのときは他人が回向した功徳を自分も受けとったことになります。
それと同じように、仏教は縁起の教えですから、功徳だけではなく、罪も受けとることができます。他人がやる悪いことを見て、自分がそれをみとめて喜ぶと、その罪に参加したことになります。罪を受けとることをパーリ語でsamadiyati といいます。罪をもらうという意味です。
功徳を回向するとき、「自分の両親、親せき、先生、親しい人をはじめ、この功徳を受けとりたい生命がこの功徳を受けとってください」と考えて回向することが正しいやり方です。たとえば「私の亡くなったお父さんだけに回向します」と思って回向したときは、亡くなったお父さんしか受けとることができません。なぜかというと、その功徳はお父さん宛に送ったからです。たとえば、私が誰かに電話をかけます。その電話は、私がかけた相手だけしか出ることができません。それと同じです。誰か特定の人を決めて回向すると、その人にしか受けとることはできないのです。ですから、テーラワーダ仏教では、回向するときは生きとし生けるものに回向します。
パッターヌモーダナーをわけると、
パッティ+アヌ+モーダナー=パッターヌモーダナー です。
・パッティ = 功徳
・アヌ = したがって
・モーダナー=モーダティという動詞からできた名詞で、喜び
という意味です。それで全体の意味は「功徳をみんなにわけてあげる」になります。
サンスクリット語では回向のことを、パリナーマナー「parināmanā」と言います。変化する、大きくなる、めぐらす、という意味です。スリランカでは、差し上げるという意味で使っています。
どうやって喜ぶか?
みんないろんなことをして喜びますが、このアヌモーダナーの喜ぶ(modati)というのは、自分が善いことをして喜ぶという意味です。心が清らかになることをして喜ぶのです。
たとえばスリランカでは、困っている人を助けてあげること、戒律を守ること、お布施をすること、ボランティアをすること、説法をすること、説法を聞くこと、目上の人を尊敬すること、親をだいじにすること、お寺や学校、道のそうじをすること、動物にえさをあげることなどをおこないます。善いことをすると、心が清らかになります。仏教では、それを功徳といいます。功徳というのは幸せになるために必要なエネルギーです。それはお金で買うことができません。
誰に回向するか?
自分がつんだ功徳を、自分だけではなく、先祖、両親、親しい人たち、すべての生命に回向します。これは慈悲の心を育てることにもなります。テーラワーダ仏教では、慈悲の瞑想はとても大事な瞑想として、お釈迦様の時代から実践しています。大乗仏教の学者も、いちばん古い経典として考えている、「スッタニパータ」の中に「慈経」があります。その中に「すべての生命はどういうものか」ということが書いてあります。
Tasā vā thāvarā vā anavasesā,
dhīgā vā ye mahantā vā
majjhimā rassa kāṇuka thūlā.
Ditthā vā ye va aditthā
ye ca dūre vasanti avidūre,
bhūta vā sambhavesī vā.
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、
短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
見たことがあるものも、ないものも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
すでに生まれたものも、これから生まれようとするものも
自分がつんだ功徳をみんなにわけてあげるということは、とても善いことです。功徳を回向することも功徳であるpatti pattānumodana(パッティパッターヌモーダナー)とお釈迦様は教えています。
功徳を回向することは、善い人がやることです。お釈迦様も、亡くなった人たちに必ず回向しなさい(petanam dakkhinam dajja)と、小部経典(kuddaka nikāya-kuddaka patha)の「ティロークッダ・スッタ」(tilo kudda suttam)で教えています。長部経典(dīghanikāya)の「マハーパリニッバーナ・スッタ」(mahā parinibbāna suttaṃ)には、神々やすべての生命に回向してくださいと教えています。
このように「誰に回向するのか」の答えは、「すべての生命に回向する」ということです。
すべての生命が回向を受けとることができるか?
仏教は、Opanaiko―自分が自分で理解して涅槃のほうへ向かう、と教えています。
Attahi attano natho 自分には自分もない(自分を守ってくれる人は自分です。)、 kohi natho parosiya, 他の人がどうやって自分を助けてくれるのか、とお釈迦様は教えています。
私たちは病気になったり、年をとったり、苦しんだりすることはいやですが、だれでも自然にそうなります。私たちは、自分の身体は自分のものだと思っていますが、自分の身体も自分でコントロールすることができません。だから、自分の心を育てて自分で悟りをひらくしかないのです。だから、私たちが功徳を回向しても、他の生命を幸せにすることができないのではないでしょうか?
功徳を生命に回向するとき、それを受けとって喜ぶ人だけ、幸せになります。他の人がやる善いことを見て、自分も喜ぶことができれば、自分もその善いことに参加したことになります。そのときは他人が回向した功徳を自分も受けとったことになります。
それと同じように、仏教は縁起の教えですから、功徳だけではなく、罪も受けとることができます。他人がやる悪いことを見て、自分がそれをみとめて喜ぶと、その罪に参加したことになります。罪を受けとることをパーリ語でsamadiyati といいます。罪をもらうという意味です。
功徳を回向するとき、「自分の両親、親せき、先生、親しい人をはじめ、この功徳を受けとりたい生命がこの功徳を受けとってください」と考えて回向することが正しいやり方です。たとえば「私の亡くなったお父さんだけに回向します」と思って回向したときは、亡くなったお父さんしか受けとることができません。なぜかというと、その功徳はお父さん宛に送ったからです。たとえば、私が誰かに電話をかけます。その電話は、私がかけた相手だけしか出ることができません。それと同じです。誰か特定の人を決めて回向すると、その人にしか受けとることはできないのです。ですから、テーラワーダ仏教では、回向するときは生きとし生けるものに回向します。
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