(これは動画の書き起こしです)
皆友達になると、どういう良いことがあるのですか?
今日は皆さんが八斎戒を受けて佛道を実践している中、法話を聴きたいと思って、先ほど慈悲について質問がありました。慈悲というのはパーリ語でメッターです、メッターという言葉の意味は何ですか、という質問でした。
この前ちょうどその話をしていたところで、その時にはメッターという言葉の意味を、注釈書の中に出てくる説明を伝えました。mittassa bhāvo mettā. と注釈書には書いてあります。
友であるということはメッターである。mitta というのは、友達ということです。友達ということは mettā。この世の中にいるすべての生命は、生きとし生けるものは自分の友達であります、というふうに考え、その心を持っていることがメッターの心を持っているということです。
そういう説明をしましたから、質問が生まれたのだと思います。「皆友達です、ということがメッターということはなんとなくわかりますけど、皆友達になったらではどういう価値がありますか? どういう良いことがあるのですか?」という質問です。
それには、「経典の中にある、mittānisaṃsa sutta を読んでみて下さい」と答えました。そして、それをもうちょっと詳しく聞きたいということで、mittānisaṃsa sutta を中心にしてお話ししたいと思います。
1. pahūtabakkho bhavati - vippavuttho sakā gharā,
bahū naṃ upajīvanti - yo mittānaṃ na dūbhati.
yo というのは誰かが、mittānaṃ というのは友達に、na dūbhati(ある本では dūhati とも)というのは、怒りを持たない、ケンカしない、友達と別れない。友達と仲が悪くならないという意味で使っています。友情を築いていれば、ということです。
sakā gharā 自分の家から、vippavuttho 外に出た時に、bakkho というのは食べるという意味があります。pahūtabakkho bhavati 沢山食べ物、飲み物をもらえる、受ける、bahū naṃ upajīvanti 沢山の人たちに従って住むことができるようになります。というのは、外に出た時に友達がいたならば、住むところや食べ物などで困ることはないからです。だから沢山友達がいた方が助かりますよ、ということです。
これは日本ではどのように説明したらいいでしょうか。現代の日本の社会じゃなくて、昔の日本ならどうでしょう。今みたいにあちこちにホテルなど無かった時代には、ちょっと旅に出た時には知り合いの所に前もって手紙を出して、この日に行きますから一日泊めていただけませんかといって、泊めてもらったりしました。
今はお金さえあれば何でもできるなんて感じになっていますが、それでも困ることはあります。友達がいた方が助かるじゃないですか。泊まるところはどちらでも、ホテルでも良いし友達がいる所でも良いし、せっかく私の所に来たのですからといって、色々案内してあげたり、ごちそうしてあげたり。
だから友達がいた方が、自分の家から出た時に食べ物、飲み物、住む所などで困ることはありません。これは一つの徳です。
この mittānisaṃsa sutta、そしてもう一つ mettānisaṃsa sutta という経典もあります。これは慈悲の瞑想をすることによって得られる結果について教えている経典です。こちらはmittānisaṃsa sutta ですから、友達がいるということで得られる結果について書かれています。
客としてもてなされる
2. yaṃ yaṃ janapadaṃ yāti - nigame rājadhāniyo,
sabbattha pūjito hoti - yo mittānaṃ na dūbhati.
全ての偈の最後に yo mittānaṃ na dūbhati とありますから、良い友達がいればこうなりますよ、ということです。
janapada というのは、他の国ととることもできるし、他の街、県とか、州ととった方がいいでしょうか。国か州。そういう州に行くか、nigame 村に行っても、rājadhāniyo 都市、都。王様が住むところは都です。日本でいうと東京。そういうところに行った時は sabbattha pūjito hoti 尊敬される。
なに言ってるかまったくわからないですね(笑)。それがわからないというのは、日本の文化的な問題です。
日本でもことわざというか、言い方があるでしょう? 「お客様は神様です」という。それは商売的に言っているのかも知れませんが、比丘の九徳の中にも pāhuneyyo とあります。お客様として来ても尊敬するべきですよ、と。だから一応自分の家に誰かがお客さんとしてきた時にはその人は大切な人で、尊敬しなければいけない。全然知らない人だったら、尊敬する気持ちにはなりません。 自分の友達が今日私の家に泊まりに来るとなったら、何もしないということはないでしょ? 色々準備して、食べ物、寝る所、お風呂など、用意して待っているじゃないですか。それが尊敬する気持ちです。
尊敬しない人相手だったら、そこまでする必要はありません。「お客様は神様です」というのはそういう意味ではないかも知れませんが、昔は日本でもそうだったんじゃないかと思います。どこに行っても、色んな所に友達がいると尊敬されますよ、ということです。
敵から守られる
3. nāssa corā pasahanti - nātimaññeti khattiyo,
sabbe amitte tarati - yo mittānaṃ na dūbhati.
assa その人は、corā 泥棒に、na pasahanti やられない。sabbe amitte tarati 全ての敵がいなくなります。
−−さすがにそれはどうかなあと思うんですが……
今と違って昔は、例えば村に入ると、村長にそれを伝えなければいけないという決まりがありました。勝手に村に行って住む、ということはできません。友達が来ても、私の家に友達が来ましたと村長の所に行って伝えなければいけない。友達も一緒に村長の所に行くと、何の問題もありません。「あなたの家に泊まるんですか。そうですか、友達ですか」ということで、快く歓迎してくれます。そうすると、もしその村に泥棒とか悪いことをする人たちがいても、「今来ているこの人はあの人の友達です。あの人の家に泊まっています」ということで、邪魔しない。
khattiyo 王という言葉を使っていますが、王様だけではなく、そういうえらい人たちにいじめられない、守られるということです。現代にはパスポートというものがありますが、あそこにもこれと似たようなことが書かれています。この券を持っている人は日本国籍の人です、この人はどこに行っても守ってくれるようお願いします、と。外務大臣の、スリランカだと大統領の命令ですね。昔にはそういうものがありませんでしたから、友達のおかげでどこにも行けたわけです。
沢山人がいるところで歓迎、信頼される
4. akkuddho sagharaṃ eti - sabhāya paṭinandito,
ñātīnaṃ uttamo hoti - yo mittānaṃ na dūbhati.
良い友達がいると、その人は akkuddho sagharaṃ eti 何の問題もなく自分の家に帰ってくることができる、sabhāya paṭinandito 皆がいるところに行っても喜ぶことができる、ñātīnaṃ uttamo hoti 親戚の中でも uttamo 聖なる人になることができる。
最高のものはなんですか、という偈です。
ārogyā paramā lābhā - saṃtuṭṭhī paramaṃ dhanaṃ,
visvāsā paramā ñātī - nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ.
ārogyā paramā lābhā
全ての利得の中で最高の利得は病気がないことです
saṃtuṭṭhī paramaṃ dhanaṃ
喜びは最高の財産である
visvāsā paramā ñātī
信頼できる人は最高の親戚である
nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ
涅槃は最高の楽である、という偈です。
その中にある visvāsā paramā ñātī という言葉とこれは似ています。自分の親戚の中に信頼できる良い友達がいる。信頼できる良い親戚。親戚というと血のつながりがある関係ですが、ここではそういう人たちではなくて、信頼できる人は最高の親戚である、ということを言っています。
そういう良い友達がいるということは、沢山人が集まっているところ、例えばどこか村に出かけた時に祭りがあったとします、その時に一人で行くよりは友達と一緒に行くと、その村の人々に「あ、今日は友達を連れてきましたねぇ」と、「ようこそ、ようこそ」という気持ちが生まれます。一人で行くとそういうことは何もなく、黙って見てくるだけ。だから、友達がいた方が尊敬されますよ、ということです。
評判が良くなる
5. sakkatvā sakkato hoti - garu hoti sagāravo,
vaṇṇakittibhato hoti - yo mittānaṃ na dūbhati.
sakkatvā sakkato hoti 助けてあげるべき人であれば助けてもらえる、garu hoti sagāravo 尊敬するべき人であれば尊敬される、vaṇṇakittibhato hoti 評判が良くなる。
良い友達がいると、行く人であっても迎える友達であっても、尊敬すべき人であるならば尊敬されるし、助けてあげるべき人であれば助けてもらえます。だから困ることはない。評判も良くなりますよ、ということです。
名誉
6. pūjako labhate pūjaṃ - vandako paṭivandanaṃ,
yaso kittiñca pappoti - yo mittānaṃ na dūbhati.
pūjā というのはお供えという意味もありますが、ここではそれより尊敬というふうにとりましょう。友達を尊敬することによって友達からも尊敬される。
vandako paṭivandanaṃ 礼拝すべき人に礼拝すると、それによって今世でなくても、輪廻転生の中で自分も礼拝される人になります。
yaso 名誉、yaso kitti ですから、名誉にあずかり評判が良くて尊敬される人になります、良い友達がいると。
輝く人になる
7. aggi yathā pajjalati - devatā va virocati,
siriyā ajahito hoti - yo mittānaṃ na dūbhati.
aggi は火、yathā pajjalati 良い友達がいると沢山財産をもらって火のように輝く人になる。
devatā va virocati 神々のように輝く。
siriyā ajahito hoti 吉祥天から離れない人になる。
ここはたとえ話ですね。吉祥天、神々、火のように輝く人になる。
良い友達がいるということは自分の財産を守れるし、何か起こった時にはその友達が皆来て助けてくれる。
これは善友のことですよ。普通の、酒を飲む時だけに集まる友達のことを言っているわけではありません。kalyāṇamitta のことです。kalyāṇamitta がいると、自分がダメになりません。なにかあって自分がつぶれてしまった時、その前よりも上に行くことができるように助けてくれる、自分の財産を守ってくれる、助けてもらえる人になりますよ、ということです。
牛、米、子に恵まれる
8. gāvo tassa pajāyanti - khette vuttaṃ virūhai,
puttānaṃ phalamasnāti - yo mittānaṃ na dūbhati.
これはちょっとわかりにくいかも知れません。
gāvo 牛。gautama ゴータマから来ている言葉です。tassa pajāyanti 牛が沢山産んでくれる。
khette vuttaṃ virūhai 田んぼで沢山お米ができる。
puttānaṃ phalamasnāti 沢山子供を授かります。
yo mittānaṃ na dūbhati いい友達がいる人は。
natthi go samitiṃ dhanaṃ. というお釈迦さまの言葉があります。牛以外の財産はない、財産といえば牛のこと以外にない、という意味です。今の人には合いませんが、昔の人々にとって、牛というのはとても重要な財産でした。
牛がいないと田んぼの仕事もできない。せっかく牛が沢山いても、牛を使う人がいないと田んぼを耕すことはできません。沢山友達がいるということは、牛使いの仕事も手伝ってくれる。善友というのはそういう人たちのことです。田んぼを耕す時には来て色々手伝ってくれる、牛の世話もしてくれる、他の田んぼの仕事も手伝ってくれる。
牛の世話をしてくれるんですから、牛も増えます。田んぼのことも手伝ってくれるから、お米も増える。生活も楽になるから、子供も育て、養うことができます。友達がいると困りません。
穴に落ちても助けてくれる
9. darito pabbatāto vā - rukkhato patito naro,
cuto patiṭṭhaṃ labhati - yo mittānaṃ na dūbhati.
darito 洞穴、pabbatāto 岩山、rukkhato 木。patito naro 穴に落ちても、岩山から落ちても、木から落ちても、
cuto はなれる。なにかから倒れて、落ちて手をはなした時に、patiṭṭhaṃ labhati 助けてくれる。yo mittānaṃ na dūbhati 良い友達がいると。善友がそういう時も助けてくれます。
これは説明しなくてもわかりますね(笑)。
−−昔にはよくあったことなのでしょうか?
はい。木に登ったり岩山に登ったり、山の中で何かを探している時に穴に落ちたり。ジャータカにもありますね、穴に落ちた人間を助けた、菩薩の猿が道も教えてあげたという。
いじめられない
10.virūḷhamūlasantānaṃ - nigrodhamiva māluto,
amittā nappasahanti - yo mittānaṃ na dūbhati.
nigrodha このような木は日本には無いので、ちょっと難しいかも知れません。ベンガルボダイジュ、インドの国の木です。神が住んでいると言われています。それはそれは大きな木で、根っこが沢山あって、強いんです。枝からも根っこが出て地面に根を張るんですから、本当に強い。そのベンガルボダイジュが、風に揺られることは無い。
amittā 友達じゃない人が nappasahanti 揺らすことができない。友達じゃない人にいじめることはできない、他の人からいじめられない。良い友達がいると。
皆が自分の友達でありますと思ったら、そういう気になったら、人間も生きものも自分の友達であるから、どこに行っても助けてくれるよ、ということです。インドボダイジュという木が広がっているように。
−−そういう気持ちを育てる、ということですか?
そうです。
−−実際に友達になる、ということではなくて?
悪い人たちは離れる
皆自分の友達であるというふうに思っていると、自然にどんどん友達が増えてくるんです。こっちからも声をかけると、あちらからも声をかけなければいけないし、良い人たちが自分の友達になってまわりにいるんですけど、付き合いたくない、お酒を飲む、タバコを吸う、仲間にはしたくない人たちは離れていきます。いい人たちは皆残ります。そういうことをしない生きものたちは、自分の友達になります。
動物から守られる
山の中に行っても、強い動物から守られる。山の中で平気で比丘たちが、修行者たちが生活しています。昨日ちょうどお坊さんと話をしていました。スリランカの佛足山は、国立公園です。この公園の中で修行しているお坊さんの話です。
そのお坊さんが、ある洞窟に入りました。その洞窟は実はトラが住んでいるところだったのですが、そうとは知らずに場所をきれいにしてそこに泊まることにしました。夜になるとトラが戻ってきて、お坊さんの近くに来ます。トラは、誰かが中にいるということで、声を出す。でも、お坊さんが慈悲の心をもって、慈悲の瞑想をやり始めた時にはもうトラは静かで、どこかに行ってしまいました。二日三日、夜にトラは戻ってきたんですけど、お坊さんが中にいるんだ、ということで何も邪魔しないでいなくなって、その後は全然来なくなりました。
そういった話は、お釈迦さまの時代にも今の時代にもあります。
慈悲の心を育てるほど、全ての生きものが自分の友達ですよ、と思える。その気持ちが自分にあるから、そのエネルギーはもうすごいんですから、そのエネルギーが身体からあふれ出て、そういう生命にも理解することができるようになります。この人は自分にとってなんの危険もない、と。そう感じ取ると、なにも邪魔をしない。
動物が咬んだり刺したりするのは、ほとんどの場合自分の命を守るためです。そうじゃなかったらそうしない。お腹が減っている時には餌が欲しいので捕まえますが、それ以外はありません。だから、その人が動物に対して、何の問題も起こさない、善い心を持っているということがわかると、なにもしない。動物から守られます。
しかし人間は難しい
しかし、人間というのは難しいんです(笑)。
今はあるかどうかわかりませんが、私がスリランカで学校に行っている時には、教科書というか、学生が読むべき本、その中に subhāshitaya(善い言葉。シンハラ語) という、悪友について書いてある詩があります。内容はこうです。
ヘビなどの動物は、口の中にある牙に毒がある
蚊などの唇に、毒がある
ムカデ、サソリなどには尻尾に毒がある
悪い人間、悪友には、体全体に毒がある
生きものにはある部分にしか毒はないのですが、悪い人間は身体全体に毒があるんです(笑)。
−−悪い人間に対しても友達であるという気持ちを持つのは善いことですが、付き合うのはかなり気を付けなさい、ということですか?
そうなんです。だから、離れるべき人からは離れるべきです。それはお釈迦さまも勿論認められていることです。お釈迦さまはおっしゃいます、自分より徳の高い人たちと付き合って下さい、そういう人がいなかったら自分と同じくらいの人と付き合って下さい、そういう人もいなかったら、自分一人で住んで下さい、自分より低い人と過ごさないで下さい、と。なぜかというと、低い人と付き合うと、自分も低い立場の人になってしまうからです。
智慧のある人たちには、また別の教えがあります。智慧がある人たちは、自分より徳が低い人たちを、あわれみをもって、助けるために、育てるために付き合って下さい、と。これは智慧のある人に、です。
皆友達でいるということには、このような価値があります。
mittā と mettā
−−mittā と mettā、区別する必要はありますか?
ありません。
−−幸せでありますようにと思うことと、皆友達だなあと思うことは、同じことですか?
すべての生命は自分の友達だと思っているから、生きとし生けるものが幸せでありますようにと願うことができるんじゃないですか? すべての生命が自分の友達であると思わないと、幸せになりますようにとは願いたくないでしょ? だからなんですね、「嫌いな生命も幸せでありますようにとは言いたくない」というのは。本当は嫌いな生命も幸せでありますように、という気持ちをもってほしいんです。嫌いな生命も、私を嫌っている生命も、すべての生命が幸せでありますように、と願うべきです。そう願うことができるのは、すべての生命が私の友達だから。他の人は私を嫌っているかも知れませんが、その人たちに対しても、私はその人を嫌っているわけではありません。私の友達だと思ってるんだから、幸せでありますように、と。
−−離れるべき人とは離れるべきだけれども、その人も離れている向こうで幸せになって下さい、と?
はい。それが慈悲の瞑想なんです。
mittānisaṃsa suttaの説明、解釈はこれで終了いたします。
この功徳によって皆さんとともに、全ての神々、全ての生命が、やすらぎを得られますように、安楽に過ごせますように、解脱に達することができますように、と誓願いたします。
サードゥ! サードゥ! サードゥ!