2017-08-02

過去七佛供養法要とは


 雨安居中、富士スガタ精舎では毎週日曜日に過去七佛供養法要を行っています。

 日本ではあまり馴染みの無い、過去七佛供養法要とは一体どういうものなのでしょうか。先日の動画の中でスダンマ長老が日本語で説明して下さっています。
 
 

スダンマ長老の説明(動画からの引用)


 過去七佛供養法要というのは、特別な法要です。
 
 日本の佛教でも過去七佛偈、七佛通誡偈といい、テーラワーダではovādapātimokkha(オーワーダパーティモッカ)といいます。
 

 sabbapāpassa(サッバパーパッサ) akaraṇaṃ(アカラナン)
 一切の悪いことをしない
 
 kusalassa(クサラッサ) upasampadā(ウパサンパダー)
 善いことをすること
 
 sacitta(サチッタ) pariyodapanaṃ(パリヨーダパナン)
 心を清らかにすること
 
 etaṃ(エータン) buddhāna(ブッダーナ) sāsanaṃ.(サーサナン)
 これらは過去七佛の教えである
 
 と、日本の仏教でも教えています。
 
 過去七佛というのは、特別な正自覚者たちです。なぜかというと、この100劫の間に生まれた七人の正自覚者から教えを聴いて預流果、一来果、不還果になった神々が、今も天界に住んでいて、その神々がお釈迦さまの所に来て礼拝し、
 
 「私たちは前世ウィパッシ正自覚者、シキ正自覚者、ウェッサブ正自覚者、カクサンダ正自覚者、コーナーガマナ正自覚者、カッサパ正自覚者、それぞれの正自覚者に出会い、教えを聴き、その正自覚者の佛舎利塔に礼拝し、菩提樹に礼拝して、その功徳によって天界に生まれ変わりました」
 
 と言ったという話が色々な経典の中に出てくるからです。
 
 有名なāṭānāṭiya(アーターナーティヤ) sutta(スッタ)(阿吒曩胝経)(あたくのうていきょう)や、mahāpadāna(マハーパダーナ) sutta(スッタ) (大本経、(だいほんきょう)大譬喩経)(だいひゆきょう)というお釈迦さまの生涯について書かれている経典の中にも過去七佛のことが書かれています。
 
 お釈迦さまが生きていた時代から
 
 namo(ナモー) sattannaṃ(サッタンナン) sammā(サンマー) sambuddhānanti.(サンブッダーナンティ)
 過去七佛に礼拝いたします
 
 とこの言葉が経典の中にありますので、この過去七佛に礼拝するということ、供養するということはこの上ない高い徳が生まれる善行為として教えられています。即ち、この善行為を行うことによって、今世の中で起こる色々な悩み苦しみから離れて、幸福で安楽で過ごすことができるということです。
 
 スリランカ人も日本人の方々も、一緒にこの雨安居中、富士スガタ精舎で毎週日曜日に過去七佛供養法要を行っています。皆様も是非この法要に参加して、過去七佛のご加護によって、過去七佛から教えを聴いて預流果、一来果、不還果になった神々のご加護によって、健康で幸福で暮らすことが出来ますように、全ての悩み苦しみが無くなりますように、良い願い事がかなえられますように、幸福で暮らせますようにという善い心を持って、誓願の心を持って、お供え法要を行いますので、皆様も心を込めて、参加して下さい。
 
(引用終わり)
 



 これを読んで、皆様はこう思うかも知れません。「これでは宗教みたいじゃないか。」
 
 その通りです。五力(信saddhā、(サッダー)精進viriya、(ウィリヤ)sati、(サティ)samādhi、(サマーディ)pañña(パンニャ))のうちの信というのは、結局信仰のことです。なにを信じるのかというと、お釈迦さまが菩提樹の下で最終的な解脱に至った、と信じることです。
 
 二つ問題があります。
 
 まず一つは、どうやってお釈迦さまが最終的な解脱に至り阿羅漢果を得られたと我々が知ることができるのか、ということです。我々が阿羅漢になれば「ああなるほど、お釈迦さまも同じ立場になられたのだ」とわかるかも知れませんが、それまでははっきり言って知る由はありません。そういう立場になった人がいるのだと信じることによって、その境地を目指す気持ちが生まれるのです。
 
 もう一つは、「テーラワーダのお坊様は、テーラワーダは宗教ではない。信仰は一切必要ない、と言っているではないか」という問題です。
 
 実は、これは方便です。日本で(というか世界でもそうだと思いますが)「信仰」というと、なにか偉大なものの力におすがりして助けてもらう、善悪を決める決定権はその偉大なものにある、ということになってしまうからです。「それとは違うんだよ」ということをまずわかってほしいのです。
 
 テーラワーダは自力の教えです。善因善果、悪因悪果、善いことをすれば自分に良い結果が現れる、悪いことをすれば悪い結果が自分に現れる。このことを信じないことも無知といいます。これもまずは信じないことにははっきり言って佛教の実践のしようがありません。
 
 しかし、であるならば、別に信仰は必要ないような気がしてきます。ただ実践すればいいのではないか、と。
 
 その通りです。ただ実践すればいいのです。しかしその中に「信」という項目が入っているのです。これはどういうことでしょうか。
 
 五力をバランス良く育てていくことによって修行は進んでいきます。どれかが強すぎても弱すぎても、ちょっと問題が起こります(因みに念だけはどれだけ強くても良いので、他のバランスに気を付けながらお坊様方はそこを中心に瞑想指導なさっています)。最近は日本語でもだいぶテーラワーダの教えに触れる機会が増えてきましたので皆さんも慧が増えてきていることと思います。そうなると、今度は信を強くしないと、バランスが悪くなってしまいます。簡単に言うと、何でも疑うだけで終わってしまう。逆に信が強すぎると、今度は何でも信じてしまう。ここでも中道は重要です。
 
 

俗世間での正見


 まだ「信仰」ということに納得できないかも知れません。もう少し例を挙げてみましょう。
 
 世間法loka(ローカ) dhamma(ダンマ)の正見sammādiṭṭhi(サンマーディッティ)の中で、atthi(アッティ) dinnaṃ、(ディンナン)atthi(アッティ) yiṭṭhaṃ、(イッタン)atthi(アッティ) hutaṃ(フタン)というのがあります。
 
 atthi(アッティ) dinnaṃ(ディンナン)
 お布施の功徳がある
 
 atthi(アッティ) yiṭṭhaṃ(イッタン)
 尊敬すべき人に尊敬すると功徳がある
 
 atthi(アッティ) hutaṃ(フタン)
 供養すると功徳がある
 
 ということです。
 

お布施の功徳がある


 佛教徒はお布施をすることによって布施波羅蜜を積みます。
 
 お布施というのは生きている生命に与えること、供養というのは、テーラワーダでは正自覚者やそれを現すもの、菩提樹などにものをお供えすることです。
 

尊敬すべき人に尊敬すると功徳がある


 他の宗教の人に「佛像に礼拝するのはなんでですか? 偶像崇拝ではないのですか?」と質問されたことがありまして、その時にこう答えました。
 
 「そもそも佛像自体誰が作ったかわからないし、佛像を崇拝しているわけではありません。佛像を見てお釈迦さまの徳を念じ、正しい教えを我々に説き僧伽(サンガ)を作ることによって今に伝えて下さったお釈迦さまに尊敬の心を持って礼拝しているのです」と。その人は納得してくれました。
 
 尊敬すべき人とは、こうして正しい教えを説いて下さったお釈迦さま、そしてそれを伝える僧伽に尊敬の気持ちを持ち、失礼なことをしない、ということです。お坊様より高い場所に座らない、失礼な言動をしない。預流果になると邪見は消えますから、こういう行動をしている人を見ると「ああ、預流果ではないんだな」とすぐにわかります。お坊様の言うことを聞かないということは、お釈迦さまの言うことを聞かない、ということです。それだけの覚悟を持って、テーラワーダのお坊様方は修行なさっています。
 

供養すると功徳がある


 私が以前わからなかったのは、ここです。生きてもいない人に、しかも菩提樹に至っては動物ですらありません。なのに佛像(お釈迦さま)、菩提樹になぜお食事、ロウソク、線香、お飲み物などをお供えしなければならないのか。
 
 以前スダンマ長老に質問した時には方便で答えて下さり、その時はその時で「なるほど」と思ったのですが、しばらくしてまた疑問に思いました。そしてそれが今回の過去七佛供養法要で、実感として理解できたような気がします。
 
 今回の法要は、準備に一時間くらいかかっています。お供え物を用意するためにです。しかしそれを皆、お飲み物については息、唾が入らないようにマスクをし、お供え物が汚れないようにと手袋をしてまで静かに準備しています。正自覚者に対して尊敬の気持ちを持たない人たちが、こんなことをするでしょうか。
 
 法要中も、お坊様が、参加した人たちがパーリ語、シンハラ語、日本語で偈を唱えます。怒りも欲も出てきません。静かな気持ちで過去七佛に対し尊敬の気持ちが増してきます。
 
 また、これは私の体験なのでいい加減なものなのですが、法要後、今週に入ってから、今まで思いつきもしなかったことが次々とひらめくようになりました。理由はまったくわからなかったのですが、どうも思い当たる節は、この法要しかないような気がします。
 

方便


 最後に、いい機会ですので、方便について少し。

 方便は、嘘ではありません。musāvāda(ムサーワーダ)ではない、ということです。

 実はテーラワーダのお坊様は、よく方便を使います。私も慣れていない頃には、いや、慣れた今でも「え?!」と思わされる発言によく出会います。しかし、後で(そうとう後になって、という場合も)「ああ言っていたのはこういう意味だったのか」とか「ああいう言い方をしたのはこういう意味があったからなのか」とわかります。ですから、「お坊様の言うことを聞く」と書きましたが、それは絶対服従、という意味でありません。
 
 とにかくお坊様方は我々在家に智慧をつけてほしいと考え、あの手この手でいろんな攻撃を繰り出してきます。白状しますと、私も「ムカッ!」ときたのは二度や三度ではありません。
 
 お坊様は言います。「瞑想するだけで預流果に至れる」と。
 
 方便です。すみませんが、瞑想するだけでは預流果には至れません。それは経典にも書いてあることです。大念処経で「ただ一つの道」と教えている相手は「比丘たちよ」です。大変修行の進んだお坊様方で、在家にそう教えているわけではありません。
 
 しかしなぜ瞑想だけで、と言うのかというと、正しい道に入るには、入り口はどこからでもいいからです。お坊様に礼拝しろだとか佛像にお供えしろだとか法話に興味をもてだとか、最初からそんなことを言われたら嫌になってしまいます。まずは瞑想だけでいいからしっかりやれ、という親心です。
 
 いくらスマナサーラ長老とはいえ、発言が100%絶対だ、と思うと間違った道へ進んでしまいます。お坊様の発言は一体どういう意図があったのかと、智慧を持って考えることが大切です。